森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

インバル・都響 マーラー交響曲第10番

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マーラー交響曲第10番 嬰ヘ長調(クック補完版)
















実は全楽章を通して聴いたことがあるのはこの演奏だけなのですが、これを聴いている限りこれ以上の演奏がこの世にあり得るだろうか?と感じる凄演です。
おそらくハーディングが指揮している何倍もの事をウィーンフィルがやっています。
マーラーは生涯をウィーンで過ごしウィーンフィルや国立歌劇場を率いた指揮者ですから、ウィーンフィルマーラーに対する含蓄は並大抵のものではありません。そしてハーディングの何らあざといところの無い音楽の流れに沿った素直な指揮だから、これはマーラーとウィーンのセルフポートレートのようにも感じられる演奏となっているのです。
まるで最上等の弦楽四重奏のような自発的精緻さを極め尽くした大オーケストラ演奏です。

しかし今日、サントリーホールを満たした音楽はそれをも越えるものであったことを報告します。
ウィーンフィルとは型の違ったピースたちだけど、都響の引き出しにもベルティーニと、またインバルとの三度のチクルスによって無数のマーラーが蓄積されてきたのです。
それがインバルとのチクルスの最終公演となった今日、都響としても例外的な集中力によって表出したのでしょう。
汲めど尽きぬ泉のように楽想が湧き出て、インバルの主張するマーラーの苦悩と希望と挫折と愛と諦め全ての様相を紡いでいきます。

マーラーがこの曲を書き始めたとき、自分が近いうちに死ぬということを完全に理解していたでしょう。全身全霊で愛した妻アルマの不倫が発覚したのはそんな矢先でした。
弟9番を書くことでなんとか死を受け入れたかに思えたマーラーはその不安定な諦観を完全に覆えされ、打ちのめされたでしょう(フロイトの診察を受けています)。
そんなわけでこの曲には一旦生を諦めた人間が泣き叫ぶ様が描かれているのです。第5楽章などは、地の底から墓石を叩いているように聞こえます。

都響にどうしてそんな凄絶な人生を表現できるのか、それが音楽と指揮の魔法としか言いようがありませんが、今日の都響はそれを完全に成し遂げていました。
今日、この日にサントリーホールにいることができて本当に幸せでした。

[2014-7-21]

フランス国立リヨン管弦楽団 『オルガン付き』

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フランス国立リヨン管弦楽団
指揮:レナード・スラットキン
ピアノ:小菅優
オルガン:石丸由佳
 
2014年7月19日 東京芸術劇場
 
 ピノ協奏曲ト長調
 
 交響曲第3番『オルガン付き』
 
 
 
 
日本ではほとんど話題に登ることのないリヨン管弦楽団です。私も普段であれば演奏会場で配られる大量のチラシの中でスルーしてしまうはずの物だったでしょう。
ところが強く目に止まったのは、やはりよく知りもせず聴きに行った昔の演奏会が明確に蘇ったからです。
 
1979年、セルジュ・ボド率いるリヨン管弦楽団の初来日を私は聴きに行っていました。曲目が奇しくも同じサン=サーンスの『オルガン付き』。今回注意を引かないほどボンヤリはまだしていません。
その初来日演奏会の事はネットにも情報が全く無いので後で書き記すことにしましょう。
 

さて今回の演奏会ですが、正直言って演奏そのものに大きく期待していたわけではありません。
日本人を母に持つ準・メルクルが常任指揮者を務めたことで少し話が聞こえた程度で、ヨーロッパのオーケストラとして決して評判が鳴り響いていたわけではありません。私も一枚もCDを持っていません。またスラットキンも正直、私の好む指揮者ではありませんでした。
昔、未熟ながらとても愛らしい個性を聴かせてくれて、今でも『オルガン付き』を聴くたびに必ず記憶の端に登るオーケストラがどのように成長しているのか、同じ曲で確認してみたい。
そういう思いでチケットを買ったのです。
 
曲目は、趣味の良さが強く問われる『マ・メール・ロワ』から始まります。
 
とても個性的な音です。
予習に聴いたパリ管弦楽団の明晰できらびやかな音とは対照的で、柔らかく暗くステージに深淵が開いたと感じるような深い音です。
フランスの音楽と言えば先入観として印象派に合うデリケートな音を想起してしまいますが、フランスにはカトリック精神もあればアバンギャルドもあるし、型に因われない、もしくは無数の型(モードやイスム)があるのがフランス流、とも言えるでしょう。
 
それで、『マ・メール・ロワ』は子供向けのお伽話というよりは大人のロマンを感じさせるエレガントな居ずまいを聴かせるのです。
あまり個人技が達者なオーケストラではなくカラフルで軽快な演奏とは言えないものの、そんな批評は差し置いて感覚的充足感を得られるとても好ましい演奏です。
 
 
軽快なト長調のピアノ協奏曲は小菅優さんの柔らかいリードにオーケストラの姿勢も変わって、私の無責任な先入観どおりのフランス風デリカシーに近づいたように感じました。
なにしろピアノが導入部で余りに繊細な世界を築きあげてしまいオーケストラがそこへ慎重に足を踏み入れなければならなくなってしまっていたのですから。
 

さて後半の『オルガン付き』。
 
緩やかな音ではあっても『マ・メール・ロワ』とは違う高いテンションで始まりました。ラヴェルとは違ったモードにシフトしたようです。
金管楽器の発音が柔らかく小回りも余り利かないため咆哮を聞かせることはありませんが、オーケストラ全体がコクの有る音色を壊さないまま壮大に盛り上げるといったスタイルで充実感を演出していました。
 
モダン面のオルガンはオーケストラに大変マッチし違和感がありません。
以前サントリーホールのオルガンをパリ管弦楽団で聴いた時には野放図なけたたましさで、第二楽章後半の出だしでは会場中から「ひゃっ!」という驚きの悲鳴が聞こえたものですが、今日は強いながらも楽音として美しい音でした。それがオーケストラの美しい力奏と相まって充実した演奏です。
 
おそらくこの曲に魅了されてすぐの人は、スポーツ的な迫力の不足に不満を感じるでしょう。しかし私はもう、トスカニーニミュンシュの録音がオーケストラが表現できる最大の迫力であってあれ以上を期待してはならないのだと納得して久しいので、今回のこの演奏は全く違った味わい方で楽しめ、感銘を受けました。
何よりも強く思ったのは、日本の一級オーケストラの方がずっと上手だけど音色を崩さずに常に香気を漂わせているなんていうことは、フランスの地方オーケストラでしか持ち得ない美質なのかもしれないということです。
パリ管弦楽団オペラ座管弦楽団も洗練と国際化の過程で失くしたものがここには残っていると感じます。
 
弦楽器の魔神のようなパワーも管楽器とオルガンの耳をつんざく轟音も終演後の万雷の拍手もバレンボイム・パリ管の方が遥かに優っていたけど、この美しい『オルガン付き』は音楽鑑賞の領域を広げてくれました。

 
 
 
[2014-7-21]
 

インバル、マーラー10番を語る

インバル、マーラー10番を語る

2014年7月16日
東京芸術劇場 シンフォニースペース
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7月20・21にサントリーホールで行われるマーラー交響曲第10番の演奏会を前に開かれた講演会です。


約1時間半の講演と20分の質疑応答で構成されていました。

講演は都響との録音を再生しながら第1番から第10番まで、マーラーの人生と絡めてそれぞれの意義を解説していくものでした。
話自体は書物やCDの解説などにあるような内容でしたが、曲を再生しながらの解説は指揮者ならではの具体的で明確な解釈で、リハーサルを彷彿とさせる意義深いものでした。
質疑応答はシナリオから外れた自由な話で、世界を股にかけて活躍する指揮者の経験と知識と洞察の深さに感嘆する意義深いものでした。
記憶を頼りに幾つか記しておきたいと思います。


Q.どうしてクック版を支持するのか?クック版の確度は?

クック以外の版は校訂者の曲になってしまっている。
クックはありとあらゆる資料を精査し、マーラーの意図を最大限に尊重して10番を完成させた。マーラーの精神を再現できている。
クックが多大な調査と努力で仕上げた成果の上に立ち音を足したり変更したりしてクックを否定しこの方が良いと言うのはフェアではない。クックの偉業に感謝している。

若いころ1番・5番の後にクックと協力して10番をやった。以来10番の依頼がたくさん来て、他をやるのが後回しになった。普通と逆だ。
10番をマーラーが仕上げたらどうなったかは誰にも分からない、マーラー自身にも。書き上げた後も沢山の変更をする作曲家だったのだから。

Q.数字のジンクスを信じるか?

信じない。
宇宙は数学的原理で成り立っている。音楽も音を数学的に構成して宇宙を表現したものだ。そういう意味では数字は大切だ。


Q.マーラーの理解・演奏に関して、ユダヤ人であることは重要か?

マーラーをわからないのに指揮をする人が多すぎる。
ジュリーニと話した。マーラーの6・7・8は分からないと言っていた。ブルックナーも良く分からない。聴衆がブルックナーが分からないと言ったら「それなら聴かなきゃいいさ!」と言っていた。それでいい。
カラヤンも全ては振らなかった。サヴァリッシュマーラーは分からないと言った。ベームフルトベングラーも歌曲は降ったが交響曲はやらなかった。
ドイツの本流の指揮者たちチクルスをあまりやらない。
マーラーの理解には抑圧や恐怖と愛が必要だ。ユダヤ人でなくとも苦難と闘い人生への疑問を持ち心の内が沸き返っている人ならマーラーを理解できる。ぬくぬく育った人は何国人でもダメだろう。

Q.バーンスタインとの交流とバーンスタインマーラー解釈について

イスラエルバーンスタインに認められヨーロッパに出てスカラシップを受けることができた。大恩人だ。
バーンスタインマーラー演奏にルネサンスをもたらした。
マーラーは1910年に「今の聴衆は私の音楽を理解しない。50年後には理解されるだろう」と言っている。
奇しくもバーンスタインが1959年から1960年にマーラー演奏を開始した。彼以前にももちろんワルタークレンペラーがいたがルネサンスをもたらしたのは彼だ。
演奏はやや大げさで速いが。

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コンサートがないので閑散とした大ホール前コンコース

[2014-7-16]


求塚 友枝昭世

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求塚(もとめづか)
第八回日経能楽鑑賞会
2014年6月5日 国立能楽堂

シテ:友枝昭世



忙しくて、見てからずいぶん時間が経ってしまったけど、余りにインパクトが強かったので記しておきたい。


二人の男声に求愛された少女がどちらを選んでも恨みを買うと考え、生田川のオシドリを射止めた方を選ぶことにする。
ところが二人の射た矢は同時に一羽のオシドリを射抜き、番の片方が飛び去る。

男たちを試したこととオシドリの番の一方を殺傷してしまった罪に気づき、その場で少女は入水する。
男たちはその場で刺し違えて死ぬ。
地獄に落ちた少女は男たちの亡霊に責め立てられ、地獄の鉄鳥となったオシドリに永遠に頭をついばまれ続ける。

通常は僧によって魂を救われ感謝の舞を披露してから成仏していく、となるのだけどこの曲ではそうはならない。
少女は苦しみの嗚咽を残し地下に帰っていく。

この時代の厳しい仏教観では、人を試し殺生させる行為のみならず入水すらも自己救済として許されなかったのだと言う。

友枝昭世さんの謡いは、地の底から湧いてくる怨念の喘ぎ声であり、地獄の責め苦を舞台にあらしめる恐るべきものでした。
後シテが素晴らしいといつまでもこの演舞が続いてほしいと思うものですが、この時ばかりはあまりの恐ろしさに耐えがたくなってしまいました。
終盤が短時間で終わってしまったのですが、もう十分という思いです。

人間国宝の表現力は想像を超えた凄まじいものでした。
友枝昭世さんのチケットはなかなか取れないのですが、この次は是非救いのある演目を見てみたいと思います。

[2014-7-13]

グラン・ブルーとシーマスター

実に久しぶりに2日続けての休みを得て、録画したまま何年も棚晒しにしていた「グラン・ブルー」を見た。
ジャック・マイヨールの半生を描いた映画だ。

モノクロームで描かれるプロローグ部分から引き込まれる。海面の波模様も海中の魚群も、波の音はもちろん港の生活音も心地良い。
題名を逆手に取ってモノクロームで始めるとは心憎いではないか。

話はマイヨールの一番輝いていた時期を抜き出し美しく脚色して描いたようだ。
穏やかで、世俗の喧騒を嫌い海とイルカを愛し地上にいることを苦手とし、いつも海に帰りたいと願っているような青年の前半生のそのまた断章だ。
親友を失ったり、地上の彼女と海のイルカの板挟みを描いたラストがマイヨールのその後の苦難を暗示して終わっている。

海を大切にしようとか、イルカを愛そうなんてメッセージは微塵も無い。ただ、それらの美しさを描いているだけだ。それが清々しい。
ついでにマイヨールが「イルカに似ている」と評した都会の彼女も人工美と自然美を兼ね備えてとびきり美しい(ぼく好みなだけかもしれないが)。
そういう美しさたちに取り巻かれて、全ての生き物の故郷である海に何度も何度も飛び込むという体験をさせてくれる映画だ。

そうしてメッセージはぼくの中から自然と生まれてくる。



ところでぼくは素潜りのこともジャック・マイヨールの事も何も知らないけど、オメガのシーマスター120mを20年近く愛用している。

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この時計はマイヨールが潜水記録を樹立した時その腕に装着していた、と巷で言われているモデルだ。

素潜りのことを何も知らないぼくでも、腕時計を装着することが記録の妨げにこそなれ何のメリットもないと分かるのでそんな逸話は全く信じていないのだけど、なんとは無しにこれを腕にはめて見始めた。

水泳やウォータースポーツでは常にはめていた思い出深い時計だ。

この時計が本当に120mの素潜りに耐えうるかどうかは分からないけど、立ち乗りのジェットスキーで何度も転倒して海面にたたきつけられたけどへっちゃらだった。穏やかな入江で1時間以上立泳ぎしていた時もなんともない。
スイミングスクールに通っている中2の息子と浮島から浜のテントまで競争して辛うじて勝利した時もはめていた。ぶっ倒れて砂まみれになったけど平気だった。

何よりもこの時計の造形の美しさと精緻な造りを愛している。
曲線美が際立つのケース。ピンと張った秒針。柔らかくかつシャープなバーインデックス。
9連ブレスレットは硬いステンレスなのに指で撫でると蛇革のようなヌメッとした感触だ。

20年前に大人びた感じはなかったし、今は子供じみていない。
もちろん工芸品ではなく工業製品だけど、何もかもがきっちりと作りこまれていてスイスの矜持を感じる素敵な腕時計だ。
どうして絶版になってしまったのか不思議に思うけど、ぼくは一生使っていくだろう。
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[2014-7-12]

セル・クリーブランド管 『イタリア』

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 フィンガルの洞窟
 夏の夜の夢
 交響曲第4番 イタリア







ちょっと訳あって久しぶりに聴いてみたこのCD、言わずと知れた『イタリア』の代表的名盤と呼ばれているものです。改めて聴いてみると以前よりさらに魅力的に聞こえます。

セルとクリーブランド管弦楽団の演奏は「室内楽的アンサンブル」とか「完璧主義」とか「セルの楽器」とか言われますが、一方で硬質で窮屈などとも言われます。器楽で精緻な演奏を窮屈とはあまり言いませんがオーケストラだと言われてしまうのはやはりオーケストラ演奏には開放感やゆとりを求めてしまうからでしょうか。そう言う私自身も時々そんなジレンマを感じることを告白しなければなりません。

この録音ではセル&クリーブランド管弦楽団の美質の方が遥かに上回っているのを感じます。
1957年録音の『フィンガルの洞窟序曲』の冒頭から柔らかく深く仄暗い音楽が流れてきて引きこまれます。無人島の岸壁にできた洞窟。訪れた人の畏敬の念。ゆらゆらと揺れる波。それらを彷彿とさせる豊かな表情はエキセントリックな完璧さとは対極にあるものです。

1967年録音の『夏の夜の夢』は描写の豊かさもさることながらシェークスピアの戯曲に相応しい格調を備えています。表情に乏しい窮屈さではなく、配慮の行き届いた高潔さです。

彼らのアンサンブルの完璧さというのは単に拍子が揃っているということではなく、どんな細かい味付けも意志が統一されているという意味です。ヴァイオリンとホルンのように離れた楽器同士でもアッチェレランドもリタルダンドも、一つのニュアンスの実現に完全に意気投合しています。
さらに耳を傾けて気づくのはアーティキュレーションが柔らかいことです。
揃っていてキビキビしているのでメリハリはっきりしていると錯覚しがちですが、発音も抑揚も柔らかいのです。
どの一音も全く遅延の許されないような合奏で柔らかい音を出すのは大変な余裕が必要なはずです。
フィンガルから10年の間に獲得した能力の大きさも感じられる演奏です。

こうした美質が凝縮し輝きを放っているのが1962年録音の『イタリア』の演奏です。
実は私はメンデルスゾーンの音楽に対して「ドラマも情感も薄味で何の問題提起も無く小奇麗で退屈な音楽」と感じていたのですが、この『イタリア』でその見方が覆ったのです。
沢山の煌めきと完璧な調和。まるでモーツァルトの様に疾走する愉悦感。モーツァルトには無い大人の洗練=人工美。そういった、作曲技術と持って生まれた資質の両方が最高度のマリアージュをした時だけに現れる芸術に気づいたのです。
セル&クリーブランド管弦楽団の世界にはドボルザーク交響曲三部作の郷土的な響きを入り口として足を踏み入れましたが、素晴らしい処まで連れて行ってもらえました。


[2014-5-25]

それにしても彼らの録音は乾いたサウンドが悔やまれます。セヴェランスホールは1958年の改修でマトモな響きになっていたはずなのだけど。

ミュージカル・ミーツ・シンフォニー2014

ミュージカル・ミーツ・シンフォニー2014
2014/5/21


ミュージカルナンバーのコンサートに行きました。
バックは円光寺雅彦さん指揮の読売日本交響楽団
シンフォニーと銘打っているだけに、オーケストラはピットではなく舞台に上がっています。ただしサウンドバランスのためかPAは通していました。

メインの出演者はラミン・カリムルー、安蘭けい新妻聖子、田代万里生、彩吹真央でゲストがピーター・ジョーバック、沼尾みゆき。
安蘭けいさんがボス的な存在でしたね。
目当てはラミン・カリムルーだったのだけどピーター・ジョーバックが出てきたのはびっくり。ラミンが声をかけて実現したのだそうです。
オーケストラだけの演奏によるウェストサイド・メドレーで始まり「オペラ座の怪人」「レ・ミゼラブル」「ミス・サイゴン」「サンセット大通り」「ライオン・キング」「ウィキッド」「エリザベート」「ラブ・ネバー・ダイ」「サウンド・オブ・ミュージック」などを様々な組み合わせで歌っていきました。

ラミンとピーターで新妻聖子さんを挟み撃ちしての「The Phantom of the Opera」、ラミンとピーターのハモりで「Music of the Night」など見どころタップリでした。

田代万里生くんは歌い方は少し固いけど伸びやかな美声で声楽のテノールもできるなあ、と思っていたら芸大の声楽科卒だとか。ナルホド。
一緒に行った母がファンクラブに入ろうかなどと言い出す始末。
エスコルタというグループに所属していて人気があるらしい。
この人自体を知らなかった。ちょっと注意してみよう。

新妻聖子さんの美声と歌唱力はもちろん彩吹真央さんも沼尾みゆきさんも伸びやかな歌を聴かせてくれました。
安蘭けいさんは出だしの選曲が彼女の声域に合っていなくて心配したけど、後半の渋い歌で魅せました。
読響はPAのせいでいつものコクのある音が出ていなくて残念。

7人もいただけあって様々な歌のバリエーションが楽しめ、疲れを癒やすことが出来ました。

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[2014-5-2]