森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

大いなる沈黙へ-グランド・シャルトルーズ修道院-

大いなる沈黙へ-グランド・シャルトルーズ修道院

イメージ 1
監督:
フィリップ・グレーニン
2005年
(フランス・スイスドイツ)
立川シネマワン



ドイツ人監督、フィリップ・グレーニングは1984年に撮影を申し込み、ひたすら返答を待つ。そして16年後のある日、突然、扉は開かれた。
彼は修道会との約束に従い、礼拝の聖歌のほかに音楽をつけず、ナレーションもつけず、照明も使わず、ただ一人カメラを携えて6ヶ月間を修道士と共に暮らした。なにも加えることなく、あるがままを映すことにより、自然光だけで撮影された美しい映像がより深く心にしみいり、未知なる時間、清澄な空気が心も身体も包みこむ。





この映画のことを、存在すら知らないでいたのですが、会員となっている映画館のHPで見つけて何か、私の嗅覚が働いて一直線で予約してしまったのです。


映画は一人の修道士が室内で何かをしている映像から始まります。何をしているのかはわかりません。祈っているのか、思索にふけっているのか、何かの作業をしているのか。
低い定在音が聞こえます。何の音かわかりません。川の流れ?撮影カメラのメカノイズ?わかりません。
ただ映像と音によって捉えられた時間が流れていきます。
すぐにそれは劇場の時空と共振し、劇場は修道院の一部になります。

カメラが修道院の外へ出ると音の正体がわかります。みぞれか、重い雪。降りしきる雪の音が暗騒音となってこの部屋の時間を支えていたのです。

最も厳しい戒律で知られるこの修道会では一切の会話が禁じられていて、唯一言葉を交わせるのは「家族としての絆を確かめるため」の日曜日の会食後だけです(普段は独居房で一人で食事)。そのほかは神への祈りしか許されていないのです。
そしてこの映画が訴える「沈黙(stille)」が「音」ではなく「言語」を指しているという事は、おびただしい音たちの雄弁さによってすぐに分かります。
雪の音、鐘の音、足音、荷車の音、ノコギリの音、調理の音。
私たちが「言葉」を組み立てて話すことで、「言葉」を聞き解釈することで、逆に耳を閉ざしてしまっている事を理解することができます。

言葉のない、自然音だけの時間に身をおくことで目も開けます。
窓から差す光の不規則な形。物の明るい面と暗い面、光の連続と断絶。それらが作り出す真実の形態。
監督はここでの長期の生活から自然と無言で向き合う力が極限まで高まったのでしょう。普段なら数秒見て注意をそらし、それっきり忘れてしまう光と影を監督のカメラは注視します。
その中で図らずもフェルメールのグラデーションやカラヴァッジョのコントラストができあがってもいます。

自然音は時間を奏で、自然光と影は魂の震えを象るようです。

この映画にはストーリーはありません。
起承転結も序破急も、ドラマらしきものはほんの一秒もありません。

169分の鮮烈な沈黙はむしろ短い、と思いました。



[2014-9-15]