力強い美をたっぷりと エッシェンバッハのベートーベン後期ピアノソナタ
エッシェンバッハという"ピアニスト"は、私の子供時代からのおなじみです。
私が物心付いたころ既にエッシェンバッハの演奏するモーツァルトのK331(トルコ行進曲つき)が家にあって、冷やかし程度に聴いていたのですが、わかる年齢になって聴くと左手の躍動感が素晴らしく、かつ奇を衒わない撥刺とした演奏だったと記憶しています。
私が物心付いたころ既にエッシェンバッハの演奏するモーツァルトのK331(トルコ行進曲つき)が家にあって、冷やかし程度に聴いていたのですが、わかる年齢になって聴くと左手の躍動感が素晴らしく、かつ奇を衒わない撥刺とした演奏だったと記憶しています。
シューマンの『子供の情景』は、記憶の中だけで手元にはありませんが、私の中ではエッシェンバッハがベストの演奏です。
アルゲリッチのようなドラマ性を追求したものではなく、聴き手自身の記憶の中の美しい部分へ連れて行ってくれるような、親密で落ち着いた演奏であったと記憶しています。
アルゲリッチのようなドラマ性を追求したものではなく、聴き手自身の記憶の中の美しい部分へ連れて行ってくれるような、親密で落ち着いた演奏であったと記憶しています。
今回のベートーベンもこのシューマンと同様、人生の中で最も美しい場面や最も悲しい場面、最も温かい場面や最も孤独な場面、そうした時間たちを一つのアルバムに綴って同時多面的に想起しているような、感情とニュアンスの重層的な再現となっています。
私は中学生のときに音楽の先生から「ピアノは打楽器である、という人もいる」と聞いたことを覚えています。現にあまりじっくり聴いていない人の中には、「ピアノの音は打鍵後に減衰する一方」と言う人がいます。
しかし実際のピアノの音は、打鍵後に膨らみ、しばらくその状態を維持してから緩やかに減衰するものです。
単音でもそうですが、調律にもよりますが和音ではなおさら、響きの膨らみは顕著に聴くことができます。
そして、その膨らみの間に多くの音が輻輳して様々な音色を形成するのです。
しかし実際のピアノの音は、打鍵後に膨らみ、しばらくその状態を維持してから緩やかに減衰するものです。
単音でもそうですが、調律にもよりますが和音ではなおさら、響きの膨らみは顕著に聴くことができます。
そして、その膨らみの間に多くの音が輻輳して様々な音色を形成するのです。
エッシェンバッハのタッチは、その、「ソノリティの膨らみと維持」の間に形成される様々な音色を駆使して音楽作りをしているようです。
ベートーベンらしい、いかついタッチは,29番からでさえ聴こえてきません。32番の冒頭の打ち出しも打鍵そのものより、ソノリティを聴かせようとしているようです。
どちらが上、と言う気はありません。ただ、エッシェンバッハの方が、演奏と向き合う「気迫」よりは「集中」が要求されるように感じます。
手持ちのCDで、32番第二楽章の演奏時間を見てみましょう。
13:00 バックハウス
16:29 リヒテル('91)
16:29 ハイドシェック('93)
17:23 ポリーニ
19:02 ピーター・ゼルキン
22:16 エッシェンバッハ
13:00 バックハウス
16:29 リヒテル('91)
16:29 ハイドシェック('93)
17:23 ポリーニ
19:02 ピーター・ゼルキン
22:16 エッシェンバッハ
これまでは、ピーターはかなりたっぷりした印象だったのですが、エッシェンバッハがはるかに上回ってしまいました。全くもって、常軌を逸した低速運行です。
なのに、少しも引き伸ばしたような感じはせず、濃厚かつ緊張感のある響きでもって、見続けていたい夢をいつまででも見ていられる、といった風情です。
第三変奏などは、シンコペーションもしっかり躍動感と立体感を聴かせてくれます。
なのに、少しも引き伸ばしたような感じはせず、濃厚かつ緊張感のある響きでもって、見続けていたい夢をいつまででも見ていられる、といった風情です。
第三変奏などは、シンコペーションもしっかり躍動感と立体感を聴かせてくれます。
これの後では他の演奏は混濁しているように聴こえたり、ポリーニなどは「俺について来い」とでも言いたげな、挑戦的な音楽に聴こえてしまうから不思議です。
評論家の小林秀雄氏の言うところの「沈黙と向き合う力」を持って接すると、これほど力強い美を感じさせてくれる演奏はそうそうない、と思います。