森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

『家族八景』

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どうして読み始めたかというと、なぜかそこら辺に放っぽってあったのが目に止まったから(^_^;)

確か三回目のはずなのに見事に忘れています。

『七瀬ふたたび』の方はよく覚えています。
ストーリーが一本で、特に水野真紀さん主演でドラマ化された時に派手なコマーシャル映像が何度も流れたことも影響しているでしょう。

ところがこちらは独立した8つのストーリーから成っている上に、一つ一つがとても重い話なのに読みやすくてあっという間に読了してしまう、ということもあるでしょう。


「住み込みの女中がテレパス」というシチュエーションからは『透明人間』と同じような「禁断の覗き見」が容易に想像されます。
ところがテレパスが他人の「思考と感情を覗き見る」のに対して透明人間は単に「目で見る」という点で、七瀬の能力は遥かに心理的インパクトの強いものです。

「見られたくないものを見られる」とか「マズイところを見てしまった」といのは普通の生活にも往々あり得ることです。
しかし思考と感情を「見透かされる」のではなく「余すところなく見て取られる」というのは、これは恐るべき領海侵犯であり主権侵害も甚だしい異常事態です。
彼女の前に立つ人間は防御手段が全く無いのですから。

その能力を純真な18歳の七瀬は(当時は18歳で純真な子はたくさんいました)聴覚や視覚と同じで「その能力によって得もしなかったし損もしたとは考えていなかった」というほど軽んじて、八つの家族の内面の景色を仔細余さずに観察して行ったのです。


描かれるのはあらゆる種類の心の毒です。あらゆる種類の人間関係の毒です。
非常にえげつない読み物と言えるでしょう。

ただし七瀬はあくまでも傍観者に過ぎず本人たちはそれを知らないのだから、ドラマとして成立するような背景と事件がなければいけません。
それらは往々にして単純でありきたりです。

家庭崩壊・不倫・仮面夫婦・老い・マザコン。どれも何百回と描かれた景色でしょう。その当事者たちの内面だって、小説だから仔細に語られたはずです。
それでもこの『家族八景』がここまで面白いのは、決して発声されない心の内がハッキリと発生されたように聴こえて来るからでしょう。七瀬のテレパシーを通せばそれは正に生身の発声なのですから当然です。
ト書きのような客観視点ではなく心の声でもなく、本人が意識した思考や言葉のみならず無意識の感情や思考のベクトルも無造作に、後からあとから折り重なるように聞こえてくるのです。

そしてそのような毒を赤裸々に描いていてもドストエフスキー太宰治のように近距離で劣情の臭気に悩まされることもなく、無関係の赤の他人のものとして、ところどころバカにしたり反省したり諦めたり、無責任に眺めていられるのです。

毒まみれで悪趣味だけど読みやすく、軽くて可笑しくさえある。
これは単なる手法の勝利ではなくて、筒井康隆の人間観察・人格構築とそれを適度な尺度と間合いで描きだす文章力の為せる技です。

優れた作家の快作で傑作です。


[2012-8-4]