森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

チェーホフ 《桜の園》

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訳:神西 清







私の本棚には子供の頃から立っていたのに、手を伸ばせばいつでも取り出すことができたのに、なぜか手を出さないままで来たチェーホフ

それを今なぜ読んだかといえば、友人から借りた少女漫画の《櫻の園》。
その出だしに「学園を櫻の園と名付けた人はさぞ嫌なヤツだっただろう」というクダリがあって、他に何の説明もありません。
作者の吉田秋生は明らかに読者がチェーホフの《桜の園》を読んだことがあるという前提で話を書き出しています。

だから、作者の期待に応えようというわけです。


そもそも1990年に21もの映画賞を取った中原俊監督の《櫻の園》がとても素敵な映画だということで非常に興味があったのだけど、男子が一人で見に行くのは勿論誰かを誘うのも何だか気恥ずかしいという愚かな理由で未見でいたのです。

よし、ここでチェーホフの原作・コミック原作・映画第一作と、勢いで一気に行ってしまおう。


それで手始めのこのチェーホフの戯曲《桜の園》。神西清訳。
これは青空文庫でも手に入るのですが、電車やカフェでじっくり読書するにはやはり『本』という形式が欲しい保守派の私は文庫版を購入してしまいました。


話は貴族階級のいわゆる『斜陽』ものです。

目の前に回避できない終末が迫っていること、どうするのが一番良いかという道。
そのどちら明確に示されているのに何の選択もしない、できない、愚かな貴族の顛末です。

ただ、滅びる者たちがコミカルなほど愚かに描かれ、前を見る若い視線も描かれているのが救いになっています。

例えばヴィスコンティの《山猫》やワーグナーの《指輪》よりも明るい読後感といえるでしょう。


訳文はとても美しくリズムの良いものです。

生身の人間がこんなセリフを喋ったら素晴らしすぎて違和感があるという日本語が溢れています。
それはそれで、「小説としての様式」ならば問題ありませんが、テレビドラマではしばしばそんな浮いたセリフに閉口させられます。

その点、この訳文は舞台で聞き応えのありそうな明快で流麗な文体です。


それにしても私にはこの桜の園、今の日本を重ねて見ないわけには行きません。
何の選択もしないままその日を迎える当主兄妹が、日本の政治に重なってしまうのです。

IT産業のまっただ中にいながら電子書籍よりも紙の本を好み、『手で紙をつまんでめくる行為が、集中力と記憶力を高めるという実験報告』などを理由にしようとする私自身も《桜の園》の住人といえるのでしょうか?

音楽の配信でも、食事に例えればアラカルトでつまみ食いするような気軽さ楽しさが『アルバム』というコース料理を駆逐してしまう危惧を感じてしまうのですが、それも《桜の園》なのかもしれません。

この話の中では『干した桜んぼう』の作り方を召使の誰もが覚えていず、桜の園の実用価値も失われてしまっています。

最古参の執事は『干した桜んぼう』 は瑞々しい果汁も残っていてとても美味しかった」というのですが、ではなぜ忘れられてしまったのか。

美しいものは過去という倉庫へ仕舞い込んでしまわなければならないのでしょうか。

そんなことを、自己反省を交えて考えさせられました。


[2012-2-12]