森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

モオツァルト・無常という事 小林秀雄

モオツァルト・無常という事 小林秀雄


中学生の頃初めてチャレンジした小林秀雄《モオツァルト》

その時は文字通り『チャレンジ』という言葉がふさわしく一字一句注意して、1ページの間に何度も辞書を引き、文章の論理的な繋がりや文意を咀嚼しようとしながら読んだものです。

何度も読んで『チャレンジ』から精読に変化して来ましたが今回は、私の知識が高まったのか理解力が高まったのか単に歳を取ったからか、初めてこれらの文章がスッと入って来たのです。


この「スッ」という感覚が大切です。

小林秀雄の評論というものは、古今東西の人名や書画・書物・歴史の知識が前置きなしに、主題を語る上での材料として挙げられて行くので、その一つひとつを調べていたら元々何を読んでいたのだかわからなくなるのです。

「スッ」と入って来てその文章のリズムに乗ることができると、あたかも飛び石を歩いて庭園をくまなく散策するように、たとえ一本の草木や一個の庭石や枯山水の一畝をこまごまと吟味しなくても、庭全体の造形と情景のリズムとが心を誘い入れてくれるのを感じられる、そんなような体験ができるものです。

それさえ出来てしまえば部分を味わうのはそこからだんだんと目を凝らしていけば良いのです。


一番単純な所では、次のような体験が随所でできます。

フランスの劇作家アンリ・ゲオンがモーツァルトの弦楽五重奏曲K.516を聴いて『tristesse allante』(疾走する悲しみ)と表現した。それを小林さんが「感じていたことを一言で言われた気がして驚いた」と言います。
それを又聞きの私がまた「一言で言われた気がした」と感じるのですが、さらに小林さんは自身の言葉で「涙が追いつけない」と続け、それで私は例えばピアノ協奏曲第27番第三楽章の言うに言われぬ思いを言われた気がしたのです。

このように文筆家としての矜持を感じる知識と表現が随所に散りばめられています。


雪舟》で雪舟の自然観照について小林さんは言います。

「分析すればするほど限りなく細くなって行く様なもの、考えれば考えるほどどんな風にも思われて来るもの、要するに見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神、私は、そういう精神が語りかけて来るのを感じて感動した。」

他ならぬ小林さんの評論自体がそのような物と、それに加えてご自身の経験と体験の積み重ねとその時その場所での心の有り様などを織りまぜて、言葉という道具を使って表現するという行為に成功しているのです。

モオツァルトや平家物語や鉄斎や雪舟が氏の心に起こした風や波がどんなものであったか、どんな心のグラデーションでどんな精神のリズムだったかを、読者に見せ、体験させる。それが小林秀雄の評論です。

それこそ氏の評論が芸術であると言われる所以でしょう。


氏の評論は、物事をモノサシで測ろうとする所謂「批評」とは全く逆に、客観性というものを偽の衣としてハナからうち捨てています。

偶像崇拝》で氏は言います。
「絵というものは不思議なものだ。以前よく見た筈なのに、まるで新しい絵を見るようだ」
「私が変わったとは思われぬ。同じ私が同じ絵を同じ無心で見ているだけだ。」
「予想してみたり想像してみたりしていたことが、何にもならなかったのは、現に新しく絵が見えているとおりだ。」
「絵は、偶然に、眼前に現れて、又、全く消え去って了う。」

実はこれが人間が「感性で認識する」という行為の本質なのに、みんな分かった気でいて、あるいは分かった気になった事が永続すると信じるか、信じたいという思いで、言葉という道具を用いて固定化してしまう。
それを評論と信じているのではないか。

友人と見てきた映画や、食べてきた料理がどんなであったかを話すのも、消えてしまう思いを少しでも留めて人や自分自身に伝えたいと望むからでしょう。

その消えてしまう思いを主観と呼ぶとして、そうした主観がある種のコンセンサスを形成しているのが文化ですから、井戸端談義ではなく『評論』と呼べるものは文化を担う教養とそれに培われた感性を土台として高められた主観を語ることなのだ、と私は思います。

その最高のあり方を、小林秀雄さんは見せてくれ、尽きることがない、と思われるのです。


[2011-11-15]