森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

評論と叡智と感性、そして知恵の空洞化

評論と叡智と感性、そして知恵の空洞化

評論は測定とは違う。
測定とは事象を絶対的かつ普遍的な尺度を持ったモノサシで定量的に記述することである。
評論は一個人の【叡智と感性】がモノサシであるところが測定とは違う。
(ここでは一個人の叡智と感性には、たとえそれが ”知の巨人” であろうと ”偉大な巨匠” であろうと、物理測定に比せられるほどの客観性などは持ち得ないとの前提に立っていて、これは真実だと私は信じている。)

さらにその評論の受け手=読者の叡智と感性の有り様が一意でないことを踏まえれば、危うくもメートル法で記述したものをヤードポンド法で解釈する様な齟齬も起こりかねない。いや、それがごく日常的に起きていることを私たちは知っているではないか!
となれば評論を理解するためにはその前段階として、【自身のモノサシ】を理解し【評者のモノサシ】を理解しなければならないのは当然である。

批評・評論を受容するためにはそれ相応の素養が必要であり、他力本願な受け手は決して有意義な示唆を得ることができない所以である。


また、そのような遠大な用意をしてまで評論が価値ある物となるのは、そのモノサシ【=評論家の叡智と感性】が探求する価値のある場合のみである。
他者の【叡智と感性】を探求するということは、自らのそれを補うこと。つまり学習と思索と経験とを自分に代わって他人にしてもらうことである。
豊かさを容易に獲得できるという虫のいい話である反面、そのような怠惰を繰り返せば知識のみならず感性までもが他人の借り物になってしまうという、恐るべき危険性をはらんでいる。
だからこそ、評論を手にする読者は自分自身で良い評論を選択する目を持たなければならない。
良い友人や良い指導者や良い医者を見つけるのと同じである。(【良い】の意味するところは機に臨んで様々であろうが。)

そのような”評論観”を踏まえた上で私は小林秀雄氏のそれを至高の評論とし、吉田秀和氏を次点に置いている。
私は小林秀雄氏や吉田秀和氏の”評価”に同意できなことが多々ある。『こうであるから、そうなる』という時、その前提を共有出来ないこともある。生まれ育った時代も文化も違うのだから当然である。それでもなおこの二人の巨人が備えているモノサシがとてつもなく広く深く精緻であることに感嘆せずにはおれない。

両氏と同じものを同じように感じたいとは毛頭思わない。ただ少しでも同じように広く深く精緻な 【自分のモノサシ】 を築けるように努力したいと念願している。


ネットの繁栄により他人の思索を容易に借用できるようになった結果、そのようにして叡智が空洞化した人間が蔓延しないか懸念している。

切断された無数の知識と見識の破片が幾重にも積もり重なって、叡智と感性とその発露である創意が触れられない奥に埋もれ隠れてしまったような人間を昔より多く見かけるようになった気がしている。

しかし、これはなにもネット社会によって初めて現われた現象ではない。評論と受容者の間では常に存在していたし、単なる日常会話の話し手と聴き手の間にも、鵜呑みや曲解や良き悪しき感化として存在していた。

クリフォード・ストールが1996年に《インターネットはからっぽの洞窟》で警告した叡智と感性の袋小路は実はずっと以前から存在していたのだ。それが今我々のすぐ隣でかつてなく大きな口を開けている。

だからこそ今、多くの人に思索の巨人が叡智と感性の限りを尽くした評論に接してもらいたいと願う。

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今日は半分愚痴になってしまいました。なんだろう。孤独なのかもしれないし、人生の徒労感の顕れなのかもしれません。。

[2010-2-15]