森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

『客観的』の不毛 SENNHEISERのヘッドホンについて(1)

今日はSSENNHEISER(ゼンハイザー)のヘッドホン、特に 《HD 650》 について考えてみたいと思います。

というのも、このヘッドホンを至上のものとする人と、奇妙な物とする人がいるようだからです。

イメージ 1 HD 600
HD 650 の前世代機で HD 580 のお色直し機。
とても素直な優等生。


始めにはっきりさせておきたいのは、このブログのガイドラインに書いたように『良し悪し』を論じる気は全くないということと、私がヘッドホンを利用するのは『愉しむため』ということです。

そしてこれまたガイドラインに書いたように、人間の感性に客観性などあり得ないと私が考えている点です。

私の知り合いに、心理学上の色を研究をしている人がいました。
例えばある人にとっての『黄色』が他の人にとっても同じ黄色か?そもそも黄色とは何だろう、というようなことを研究しているのです。(10年も前のことです。今でもそのテーマに取り組んでいるかどうかは知りません。)

色は主観です。生まれて目が開いた時から「これが黄色」と、みんなが教わっている色を、みんな黄色と呼びます。しかし、脳の中で、心で、感性で感じている『色』はみな本当に同じなのでしょうか?

同じサイズの図形でも色によって大きさが違って感じられます。黄色は膨張色です。青は収縮色です。これは万人にとって共通で、客観的事実です。
しかし白も赤も膨張色です。その間の無限の階調のどれを感性で『黄色』と感じているのか。それは誰にも、他の誰かの脳内感覚と比べてみることができません。

万人が当たり前のものとして認知している西洋美術の遠近法は、私も立体を平面に写し取る普遍の方法であると考えていました。
ところが、文明と隔絶された未開の部族に一点透視法で描かれた絵を見せたら、何のことか理解できなかったそうです。つまりそれが立体を平面に写し取ったものであって、奥行きを感じる絵である、ということは理解されなかったということです。
こんな当たり前と考えていた事も、現代文明の『お約束』に基づいた、人為的に形成された認識基盤が要求されているようです。

こうしたことは音についてもいえます。
国際基準音である440Hzの『ラ』でも、あなたの脳内の『ラ』と私の『ラ』は同じなのでしょうか。
私は違っても不思議ではないと思います。
例えば生涯1オクターブ違う音を自らの身体で発して生きている男性と女性が、同じ音程のセンシティヴィティであると考えるほうが不自然ではありませんか?

また、聴覚を形成する生理的要素も個人差が非常に大きいものです。
試しに音楽を聴きながら耳介を曲げると、音が明るくなったり暗くなったりするのがわかります。
耳の形も、外耳・内耳の形状も人によって全く違います。
音程を聞き分ける基礎である、『有毛細胞』の分布も個人差があります。
別の人間が同じものを聴いて同じ神経パルス情報を取得することは、身体構造からいって全くありえないことは明らかです。

その上でさらに『脳による認知の同一性』の疑問があるのです。

それなのに、『客観的に』「これはいい音だ」「いや悪い音だ」等と言い争いをする人が多くいます。

そんな不毛な論争をせず、『好き嫌い』で会話したら、互いの感性の基盤や相違が理解できて、有意義な情報交換ができるのではないでしょうか。



さて一方、『原音に近いか?』なら、測定で明らかにできるでしょう。

しかし、ことヘッドホンにおいてはそう簡単には行きません。

(つづく)



[2009-7-23]