森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

宇宙飛行士ピルクス物語 (上) スタニスワフ・レム

イメージ 1宇宙飛行士ピルクス物語(上)
作者:スタニスワフ レム
翻訳:深見 弾
出版社:株式会社 早川書房(ハヤカワ文庫SF)

ソラリスの陽のもとに』(1962)(映画名『惑星ソラリス』)で有名なポーランドの作家、スタニスワフ・レムの中編集です。

レムは風景や自然現象を科学「的」かつ細部まで極めてこまごまと描写します。
散文的な叙情性も豊かで、人類が体験したことのない世界を物理現象として筋の通った(ように見える)不思議さで幻想的に提示します。

レムの描く未来世界は建物も乗り物もガジェットも全てが経年劣化やその世界の垢で汚れたり擦り切れたりしています。
インターフェイスはアナログチックで懐かしさすら感じるものです。その未来世界の装置を操作したときの手触りを既に知っていて、肌で感じられそうです。

これが書かれた時代(下記'構成'参照)と、ポーランドという国の情景を反映しているのか、あえてそのようにしているのかは分りません。

ポーランドと言う国は、第二次大戦のポーランド侵攻に際しても「ドイツの自動車化師団に騎兵隊で突撃した」という都市伝説がまかり通ってしまうくらいで(神出鬼没にかく乱したのは確からしいですが)こういうアナクロが持ち味として似合ってしまいます。
それにデジタルテクノロジーが計算ではなく情報技術に利用され出したのはつい最近のことなので、仕方ないのかもしれません。

それにしても
アシモフの『ファウンデーション』3部作 - 1951-1953
クラークの『2001年宇宙の旅』 - 1968
ということを考え合わせば、ピカピカに輝く未来世界になっていないのは、作品世界の「味」としての描写と考えておきましょう。

そして強調したいのは、人の考えもまるで「風景」のように描かれるということです。
論理的焦点を結んで、点や線として思考や感情が描かれることはまれです。

例えば『条件反射』に出てくる学者は冷静沈着で論理的な、感情を露わにしない人物で、主人公ピルクスとは対照的な人柄なのですが、ピルクスの茫洋とした目を通して描かれる結果、漠然とした眺めの一部のような存在になっています。

こうしたことは、私とは正反対の世界の「見え方」です。
私は、「ああ」だから「こう」、「こうしたから」「ああなった」と考えずには気がすみません。
分らないことや新しい事柄に対処するとき、白地に点を打って行き、点と点を線で結ばずには気が済まないのです。

それにも拘らずこのレムの描く世界に惹かれるのは、認識や思惟が人間性という共通の出発点に根ざしていると感じられるからです。
人間という生き物の特性が認識の基盤であり、論理も感情もその土台の上で成り立っているのです。
レムが描く風景も事象も、人間性というフィルターを通して物質や現象を眺めた結果です。
その人間性のフィルターが個性や環境変化で違った模様を作ることによって、様々な思念が起こり、事件にすら発展します。

そしてレムの物語では決してその思念の内容や事件が主題なのではありません。
人間性を根底に描き出される「世界と心の模様」が主題なのです。
例えば『アルバトロス号』は、事件(を傍受する)現場の情景と、そのあり様を何もできず傍観するしかないピルクスの心の模様、それ自体を描写する一編です。

私の具象的な考え方も、レムのような見方からすれば、何次元もの重なり合う論理と思念の世界の極小な一部に過ぎないのでしょう。
その深さと広がりに引き込まれずにはいられません。

最後の『狩り』では、スリルとサスペンスも盛り込まれています。
例えば、空気のない月面では軌跡の見えないレーザー光線同士の戦いの恐怖が描かれます。
しかし最後は決して究明できない真相の上に成り立った悔恨の念で幕を閉じるのです。
物語の終結に、点が打たれていない、と感じます。
それが、このピルクスの物語の余韻となっていつまでも漂い続けるのです。


構成
テスト (1959)
トロール (1959)
<アルバトロス>号 (1959)
テルミヌス (1961)
条件反射 (1963)
狩り (1965)
(初出年はポーランドWIKIPEDIAから英語に翻訳して調べました)


[2009-4-23]