森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

パレーズ・エンド

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パレーズ・エンドというテレビドラマを見た。

主演のベネディクト・カンバーバッチが目当て。『シャーロック』で現代のシャーロック・ホームズを演じて女性ファンが大増殖したらしいけど、ぼくの場合は『スター・トレック イントゥ・ダークネス』つながり。
顔立ちは上品ながらも決然とし、声域は決して低くはないのだけど重厚な胸部共鳴が人格の厚みを演出している。
だからシャーロックの理屈っぽくイヤミなことこの上ないセリフも上滑りせず聞き捨てならない重みをもって響く(吹き替えの声は全然そうなっていない)。

未来物の『スター・トレック』と現代物の『シャーロック』を見てなかなか気に入ったぼくは彼の歴史物も見てみようという気になった。

『パレーズ・エンド』
1900年代の初頭、カンバーバッチ演じるクリストファー・ティージェンスはイギリス紳士の体面を何よりも重んじる保守的な超堅物だ。何事にも動じず理知的に振る舞う。
その超堅物がどうしたことか、列車の中で間違いを起こし放蕩女であるシルヴィアと結婚することになってしまう。
普通ならば悪女に振り回される紳士の物語、と総括できるのだろうけど、このクリストファーにはそういった同情は当てはまらない。
紳士たる事を最大の信条とするクリストファーはシルヴィアの浮気を見て見ぬふりをし、どこの男の子供かわからない子を我が子として慈しむ。知人の困難まで紳士たるべくその身に引き受けて救済し泥をかぶり、自己弁護を一切せずそして無表情だ(もちろんドラマの観衆は懊悩する彼の姿を目撃するのだが)。
「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」
夏目漱石がやってはいけないと言った全てを彼は大得意になってやる。
その結果彼の世評は地に落ちるのだが、無表情な紳士振りはいつまでも揺るぎない。
その困難な紳士道が「やめることのできない行進=パレード」というわけだ。

シルヴィアや知人をかばうための嘘と自尊心のため人間関係は様々な矛盾を抱え、内面は腐った真実で満たされている。
最悪のアバズレであるシルヴィアはそんなクリストファーに屈折した愛をいだき、嫉妬と憎しみから様々な嫌がらせを仕掛ける。
ぼくがそんなシルヴィアに苛立ちを感じても憎みきれないのは彼女が直面するクリストファーの無表情さと欺瞞の故だ。自己愛の強い女がそうなってしまうのも無理はない、と思わせる。
そしてクリストファーの方にも、荷をおろし妻や友人や恩人と腹を割って真実を語り合う、という事ができない哀れさを感じる。パレードを途中で抜けるというのは彼の人格に組み込まれていない行動なのだ。

ここで英語で「持って生まれた気質」の事を指す「nature」という言葉が頭をよぎった。
彼と彼女にとって自然な心でいること、自分らしく生きる事は世の中と絡まり捩れる蔦のようだ。この世の中でクリストファーの紳士道は嘘を必要とし、シルヴィアの直情気質は紳士の壁にぶつかり屈折を招来する。
それが彼/彼女のnatureなのであり、上手にふるまうことは不自然なのだろう。

物語は友人の「そのパレードはもう終わってる」という助言とともに終戦というイベントを迎えそれぞれ収まるべきところに収まるのだけど、クリストファーの朗らかな笑顔もシルヴィアのサバサバした表情も新たなパレードの始まりを示しているのであるから、彼らのnatureは決してハッピーエンドを約束してはいない、と感じるのは穿った見方に過ぎだろうか?



それから、このドラマのテーマ曲がぼくの耳にはシューベルトの『白鳥の歌』第四曲『セレナーデ』の借用に聞こえるのだけど、あまり内容に関連がないのでたまたま似ているだけだろうか。


[2014-5-17]