森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

CD:真のフォーレ『レクイエム』

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フォーレ:レクイエム
フランク:交響曲ニ短調

指 揮:フィリップ・ヘレベッへ  
ソプラノ:ヨハネッテ・ゾマー
バリトン:シュテファン・ゲンツ






フォーレは死を「苦痛な通り道ではなく幸福な死後への擦過音であり恵みである」とみなしていました。
葬式の長ったらしいオルガン演奏から開放されたいとも述べていました。
しかし、このレクイエムは何かの目的のために作曲したのではない、とも言いました。

1888年にマドレーヌ寺院で初演された後様々な形態で演奏されましたが、大きく分けて3つのヴァージョンがあります。
始めの2つのヴァージョン(教会版と呼ばれる)にヴァイオリンと木管が欠けているのを見た出版社のアメルは売れ行きを危惧して「普通のオーケストラ」用にオーケストレーションをし直すよう依頼したと考えられます。
1900年にイザイに宛てた手紙で「オーケストレーションヴィオラとチェロの4パートをベースとして、ファーストだけのヴァイオリンはサンクトゥスから加わる。オルガンがあるから金管木管はあまり役に立たないんだ。」と書いています。
ヴィオラたちの後、サンクトゥスで現れるヴァイオリンがなんと天国的な響きをもたらすことか!!」とも。
こうした言及からフォーレがどのような音を彼のレクイエムを望んでいたのかがわかろうというものです。
しかしオルガンを備えたコンサート会場が少ないため指揮をするイザイに「音の大きいハーモニウムリードオルガン)を使って欲しい」とアドヴァイスしています。

そしてついに1901年出版のフルオーストラヴァージョンが完成し、瞬く間に広がっていきました。
1900年10月にはメンゲルベルク宛の手紙に「レクイエムがあちこちで演奏されている。私は有名人になるぞ!」とあります。

ヘレベッへはこの当時の姿を再現するため、この時代の楽器を使用し(弦はもちろんガット弦)オルガンも「音の大きいハーモニウム」を使用します。
ボーイ・ソプラノの代わりに女性のソプラノを起用するのもこの時代のコンサートでの慣例です。

そしてラテン語の発音は当時のパリの教会で使用していた「ガリカン式(Gallican Pronuciation)」を採用します。
1903年から1904年にかけて教皇庁が「ローマ式(Roman Pronunciation)」を推奨したにもかからわず第二次大戦までパリ式が使われていましたし、フォーレも歌の発音を変えてしまうことに非常に懐疑的である事を表明していました。
だから、このレクイエムでは「ルチェアト エイス」が「リュスィアト エイス」、「センピテルナム レクウィイェム」が「サンピテルナム レクィエム」、「ピエ イェズー」が「ピエ ジェズ」となっています。
ピリオド楽器を使用する以上、歌もその時代の発音で歌うことが論理的であるのは言うまでもありません。


以上が、有名なフォーレ研究家ジャン-ミシェル・ネクトゥーによるライナーノートのダイジェストです。
(仏英独でしか書かれていないので覚書として掲載しました。)


この演奏は3つ目のフルオーストラヴァージョンを発表当時の姿で再現するものです。

私には考証的な事はわかりませんので音楽的な評価ですが、完璧 -取り残された感覚を持つほど完璧- です。

過去の「名演」でも悩まされるオケと合唱のズレが全くありませんし、音量バランスも対等です。
暗く重い響きなのに濁りは全くなく透明です。
ガット弦の音色とフォーレの当初の理想を考慮したためでしょう、バイオリンの高音域は派手に鳴り響くことはありません。だから、これまでのストイックめの演奏からもにじみ出ていた香気がここにはあまりありません。
しかし至福のバランスは美しいことこの上もなく、研究成果の記述と相まってこれがフォーレのレクイエムとして完璧な姿なのだろうと否応なしに納得させられてしまう演奏です。

それにもかかわらず「取り残された感覚」と書いたのは、次のような事です。
まず、いくら透明とは言えオーケストラが入っているためにパレストリーナジョスカン・デ・プレのアカペラの清澄さには及びません。
アカペラに対してオーケストラを適切に鳴らすことで清澄さをできるだけ失わずに音域と音色を拡張している点がこの曲の魅力だったのですが、この再現演奏では色つやが伸び止まり気味で渋い色合いとなっています(パイプオルガンの欠如が大きく作用していると思われます)。

そして抑揚の息が短い、という事を挙たいと思います。
例えば出だしは通常「Requiem aeternam」から「luceat eis」まで単一の山で表現しますし手元の楽譜でもそう指示されていますが、ヘレベッへはいくつもの山を作ります。
アニュス・デイでも「Lux--」から「pius es」までは揺らぎがあるにせよ単一のクレッシェンドとするもので手元の楽譜でもやはりそうなっているのですが、ヘレベッへはここでも沢山の山を作ります。
このシーンはよく「ステンドグラスから徐々に光が差してくる」というように言われますが、抑揚過多のため音色のブレンド変化から意識がそがれる気がするのです。

簡単に行ってしまえば神秘的な美しさが人智の完璧さに置き換わったような気がするのです。

ネガティブな面を力説してしまいましたが、これを聴いた後ではクリュイタンスもコルボも響きの混濁で乱れを隠して雰囲気で流し去ったようにしか聞こえなくなる、という事実がその完璧さを示しています。
感覚的に馴染めなかったけれど、しばらくこの演奏をリファレンスにしてみようと思います。
その先に新しい世界が広がっている気がするからです。


[2013-10-27]