森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

終戦のエンペラー

原題:Emperor

終戦のエンペラー』という映画を見て来ました。
第二世界大戦後マッカーサーが厚木に降り立ち、天皇裕仁を断罪するかどうかを10日間の調査で決断する、という内容です。

70年前のこととはいえ未だに非常にセンシティブな問題でありあからさまに描けるのかどうか、非常に興味がありました。

私は祖母が「天皇様」と呼んで天皇誕生日には皇居前まで参賀に行き、父は「戦争は何もかも天皇のせい」と吐き捨てるように断言するなど、わけの分からない状況の中で他人ごとを決め込んで育って来ました。
第二次大戦については日本がいかに悪いかということを学校やマスコミから叩きこまれ本多勝一などはヒーローだったわけですが、その後自分なりに見聞きすればするほど戦争責任の所在がどんどんわからなくなる、というジレンマに陥って現在に至るわけです。
(それにしても、何の思い入れも無いはずの陛下をないがしろにできない想いが厳然と心の内に存在するのはどうしたものでしょう?困惑を感じます。)

ともかく日本人特有の曖昧さが諸外国に通用しない、という事は嫌というほど理解しているので自分なりに決着を付けた上で海外の友人たちに対峙したいと願い続けて来た問題であることは間違いありません。
そしてこの映画がアメリカ人の目を通して終戦を描く事でいくばくかのヒントをくれるかもしれない、という希望をいだいて見に行ったのです。

結論としてはマッカーサーも、主役であり天皇の責任を調査するフェラーズ准将も、日本の曖昧さを不可解なまま受け入れ、天皇の真摯な人柄と日本の円滑な復興とういう実利を考慮した上で決断を下すわけです。
従って諸外国の普通の人には容易に説明のつく結論ではなく、我々が既に知り尽くしているのと同様の「白黒付かない」状態を再確認することとなってしまいました。

西田敏行が「日本は中国やシンガポールやマレーシアに侵略したが、それらの国を中国やシンガポールの人々から奪ったのではなく、イギリス人やアメリカ人から奪ったのだ。あなた方のやり方に追従したのだ。」
という意味のことを言います。
今日の通念では詭弁ですが、当時としては至極当然の認識であったでしょう。ロシアなどは今日でさえ「北方領土はロシアが戦争で分捕ったのだから日本はそれを受け入れろ」と公言している程です。

香港はついこの前の1997年までイギリス領でした。マカオは1999年までポルトガル領でした。
ハワイは土着民の王国でしたが1959年にアメリカの州になりました。
南米ではスペインやポルトガルによって人口は数十分の1まで減らされ、地域によっては完全に絶滅させられました。しかし現在は円満に共存しています。
グアムやサイパンは未だにアメリカが統治しています。
私はサイパンのタクシーでご当地事情について話し込んだ後「日本統治時代が一番良かった」と、料金を無料にしてもらったことがあります(乗車メーターに細工する方法まで披露してくれました(^^;)。
何が許されて何がそうでないのか、私にはさっぱりわかりません。

そもそも善悪の尺度が勝者によって作られるというのは周知の事情です(地球の善悪は人間が規定しています。地球温暖化で喜ぶ動植物種のことは無視して・・)。
それならそうと、ハッキリ言ってくれた方がむしろスッキリします。「負けたのだから土下座しろ」と。

この映画は日本にかなり同情的に描かれていますが、それでもこの中途半端を「アメリカが受け入れたのだから、お前らも甘んじろ」と言われているように感じてなりません。そしてそれが解けない縄となって日本を縛り続けているのだと。

『日本のいちばん長い日』の様な硬派でサスペンスフルかつ面白い映画ではありません。
准将の恋愛パートは長すぎると感じました。しかし日本以外の国でこれを見てもらうためには仕方なかったかもしれません。
おかしな日本描写や日本語もありませんでした。良心的です。(焼け野原となった東京に水牛がいましたが、ロケセットがニュージーランドなので仕方がなかったのでしょう。)

モヤモヤが固定化される、不思議な映画でもありました。


[2013-7-30]