森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

これこそ映画! 『ニーチェの馬』


脚本:タル・ベーラ、クラスナホルカイ・ラースロー
撮影:フレッド・ケレメン
音楽:ヴィーグ・ミハーイ
出演:ボーク・エリカ、デルジ・ヤーノシュ

2011年 ハンガリー=フランス=スイス=ドイツ

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前置き

映画という表現形式で、原作やノベライズの文章が喚起する世界の深さと広がりに対して映画のそれは映像においてさえ負けてしまっているのを頻繁に感じます。
これはある意味当然のことです。
文章では現実にはありえない、あるいは人間には認知できない空間表現も可能です。
例えば多次元空間のような抽象的な世界や、ミクロとマクロをカット割り無く同時に見せる観念的な表現など。
セリフや表情を通さず直接思考や感情を表せるのは言うまでもありません。
抽象的な物事を映像という具象に翻訳した途端にたくさんのものが失われるのです。

だからハリウッドでは具象的な映像と音声がモノを言うSFやアクションと歴史物や美男美女の物語が幅をきかせているのでしょう。
しかし私は中学生の時にレンズマンシリーズを読んで頭の中に思い描いた宇宙戦争の映像を超えるSF映画を見たことがありません。
本当はレンズマンを撮りたかったというルーカスのスター・ウォーズシリーズは中世の魔法世界と第一次・二次世界大戦をモチーフに具体的でわかりやすい未来的映像にしただけなので除外です。

ハリー・ポッターでは小説も映画も見た息子たちに訊ねると「そりゃ本で読んで想像するほうがぜんぜん凄いよ。映画はショボイ。」と、さも当たり前のように言います。

それでも映画を見るのは、レジャーとして手軽に短時間に楽しめるからではないでしょうか。それはそれで良いことで軽んじるつもりなどありません。
私はしかしレジャー(=余暇)としてではなく、人間や社会や宇宙や人生に対する見識と感性を広げたい。どこかの賢人が身を削るようにして築いたそれらへの観照を受け止めてみたいと常々思って文芸や芸術に接しています。
そんな希求を満たしてなおかつ絶対に映画というフォーマットではなくてはならなかったと感じられる作品がこの『ニーチェの馬』です。



この映画では言語は僅かにヒントを与える役割しか持っていません。
音と映像が感性を叩きつけてきます。

荒れた山の上の粗末な家。
片腕の利かない父と娘と疲れた馬。
止まない嵐。
土埃。
58年間聞き続けてきたキクイムシの音が止むという小さな事象から始まって、徐々に失われていく世界。

白黒の画面に極端に少ないセリフと長回し。短いモチーフを繰り返す音楽(ミニマル・ミュージックと呼ぶには素朴でテクノっぽくない)。
父娘の単純で止めどない繰り返しの毎日が天地創造と逆に6日間で失われていく様は、このくたびれた家と人生のみならず全世界が失われるのだという事を十二分に表現しています。
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テーマも結論もはっきりせず疑問を投げかける映画ですが、少なくともここで失われるものは既に我々の社会では失われているのではないかと感じます。
監督タル・ベーラの社会への決別宣言、あるいは辞世の句なのでしょうか。

単調なのに圧倒的な存在感と求心力でまったく目と耳と感性に休む間を与えないこの映画をなんと表現したらいいのかわかりません。
さきほどから言語を映画化したものは言語に負けるのではないかと書いて来ました。
この映画には原作になった詩があるそうですが映画の中では言語で何かを表すことはありません。
そしてこの映画を言語化するのも極めて困難です。

映画として表現され、映画として受け入れ、他のフォーマットに変換できない。
そしてこの勁さ。

これこそ究極の映画ではないでしょうか。

映画を芸術として味わいたい人は絶対に見るべきです。


[2013-5-25]