森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

小菅優ピアノリサイタル 於 杜のホールはしもと

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小菅優ピアノリサイタル

2013年2月2日 杜のホールはしもと




大変評価の高い小菅優ですが私にとっては「これが心に響く」というところのあまり無い演奏家でした。しかしあるコンサートのアンコールで弾いたシベリウスの「樅の木」が突然心に響き、いつも頭のなかで鳴っているようになり、それ以来沢山の「樅の木」を聴いて来ました。

ヴィータサロ、舘野泉はもちろん、アシュケナージの非売品まで手に入れて。
しかしどれもあの、小菅優のアンコール演奏の記憶を脇へ押しやることはできませんでした。

彼女の演奏は一音一音の粒立ちと融け合いを兼ね合わせて、立体感と色彩感、情念と情景の全てを高度に兼ね備えているように感じられ、呼吸することが煩わしくなるほど集中し引き込まれれる演奏でした。


さあ、その小菅優の樅の木を聴けるチャンスがとうとうやって来ました。

他の曲も大好きな曲達ですが今日の私にとってはオマケです。


まずはモーツァルトのK.330。これも大好きな曲です。
小菅優の演奏は打鍵の鋭さを感じさせず、柔らかい音を重ねて行って音のシーツを広げたような印象です(J.コルトレーンじゃありませんが・・)
少年のまま大人になったモーツァルトというより、エレガントなレディのモーツァルトですね。


ベートーヴェンも彼女からはもっと強い音楽を予期していたのですが、柔らかい演奏でした。
あまり低音が重く響かないホールの特性のためもあったかもしれません。


ブゾーニシャコンヌは私が多くのピアニストが取り上げるのを疑問に感じる曲の一つなのです。
派手にやるんでもレオンハルトのように沢山の音の中からちゃんと原曲の旋律線が響いてくるようにすれば良いのに。
人の一生を10数分に凝縮したようなこの凄まじい音楽が、クライマックスだけを抜き出したようになっています。

小菅優の演奏はあまりゴツゴツせず優雅さや美しさを楽しむことができたので、子供じみた音楽に辟易すること無く心地よく聴けました。


そして休憩を挟んでから「樅の木」を含む「樹の組曲」ですが。
うーん。
シベリウスの自然に対する素朴かつ純粋な愛情や、それと表裏を成す人恋しさのようなものは余り感じられませんでした。
「樅の木」は以前に聴いた演奏よりずっと美しく磨かれた音になっていましたが、短時間に目まぐるしく変化する和声の妙や音の立体感は減ってしまったように感じられました。
シベリウスの音楽には時に立ち止まって空気の冷たさを確かめるような瞬間を感じるのですが、今日の演奏は流れよく進んでいってしまった印象です。


夜のガスパールはポゴレリッチの初来日コンサートで度肝を抜かれてからミケランジェリアルゲリッチもどうという事もないというようになってしまったのですが、小菅優の演奏はそういう比較に乗らない繊細優雅な演奏です。
音は冷たくはなく、明るく柔らかく人を決して突き放すことのない音楽です。
そんな雰囲気のラヴェルを少しパスカル・ロジェに感じますが小菅優の方がずっと音がきらびやかでノーブルです。
そして恐ろしく俊敏でいながら体育会系ではなく文化系。


今まで聴いて来た小菅優と今夜はちょっと違う印象なのでした。


それにしてもこの季節には演奏中の咳が多くなるのは覚悟していたのですがこの日は最悪でした。
「ングッ、くカァ~」という呼吸困難の唸り声や「ズビー」という鼻音が間断なく無く鳴り続け、「エヘーンッッ!!」という向こう見ずな大咳払いが何度も鳴り渡りました。
私の長いコンサート歴でも間違いなく最悪の一夜で、演奏に集中することは全く不可能でした。

ひょっとすると小菅優さんも、ピアノとホールにアダプテーションする事ができなかったのかもしれません。


アンコールのショパン「遺作」「エオリアンハープ」はホールの響きにも合っていて大変美しい演奏でした。


[2013-2-5]