森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

立原正秋 あだし野

立原正秋 あだし野イメージ 1









始めに読んだのは高校生の時でした。

この主人公、壬生七郎が何に迷っているのかわからず、話の力点も終点もわからず、ただ静かな文体で語られる人や自然の観照に定まらない引力を感じ、未解決なものがあるのでいつかまた読んでみよう、と心に決めていたものです。

そろそろ読んでみてもいいか、と思い始めたのは数年前ですがついに手にとってみました。


柔らかく滑らかな文体。
それで物事を淡々と描写する清々しいほど透明な筆致。

その文章の主題がいびつな魂の持ち主の主人公、壬生七郎です。

この主人公を良く表しているのが次のエピソードです。

壬生は庭で見かけた蛇の口から竹を貫通させます。
一本の太い棒のようになってなお死なずにいる蛇の背中に午前の日差しが照り映え、それに夢幻の世界を見ます。かつて同棲していた女が死んだ時と同じだ、と。
そしてその光景を肴に朝食を楽しむ壬生。

どうして一息に殺さずそんな残酷なことをするのだろう、と淡々と自己観照に浸ります。

万事がこの調子。


娘を驚かせた犬を撲殺し、知り合いの妻を暴行して離婚に至らしめ、自らは二つの家を行き来しどちらの女も破滅寸前に追い込む。

そんな荒んだ心理を冷静に掘り下げ流麗な文体で描写していきます。
まるでその冷静さが免罪符ででもあるかのように。


注意すべきは文体だけが冷静なのであって、壬生自身は妻の平手打ちを「無様な姿勢で避けようと」し、女の存在を「狼狽しながら言い訳」し、妻に思いを寄せる従兄弟に妻のための金だと言って無心しに行くなど到底冷静でも強くもなく、全く感情をコントロールできない出来損ないの人間だということです。


美しい花々へ心象を重ねたり、人生の移ろいを古典に託すなど、自然や人間観照に卓越した感性を見せますが、結局私にはこの人物がおぞましい怪物であって、怪物は怪物なりに自然や文化に取り巻かれてそれらと自分との相互関係の中で生きている、ということを述べているに過ぎない。そう思われるのです。

私にはこの主人公が異形の心を持った理解不能の生き物にしか見えないので、物語の中や後書きにあるように精神の勁(つよ)さなどと言うものは全く認めることができません。

冷徹な自己分析や、胃にできた腫瘍を免罪符にしようとしていますが、全くそれは受け入れられません。
許しを求めているのは明らかです。
なぜなら繰り返し「どうして俺はそんなに残酷なのだ」という趣旨のことを訴えているのですから。

二人の女を行き来する二重生活を解消した後、「どうしてあんなことが出来たのだろう、あの残酷さはもう消えた」と回想し「家長の尊厳を回復した」と言いつつ起こしたのが蛇のエピソードです。

他者の痛みに鈍感で共感というものに欠けた人間は現実に見かけます。
男の暴力性が根源的で普遍のものだという事も否定しません。
しかしこれは全くそれとは別次元のものに思えます。

太宰治ドストエフスキーの赤裸々なモノローグには胸が痛むほど無念な共感ができますが、これにはできません。

高校生の時には感じなかった不愉快さの中で何度も放棄しようかと悩みながらもなんとか読み果しました。
長年の課題はきれいに片付いた思いです。
ファーブル昆虫記の様に奇妙な生き物の生態を客観的に描写すると共に、一人称の主観表現でその心理をまざまざと見る。
それが平明かつ美しい日本語で語られる。
そういう体験であったということです。


実に奇妙な読書体験でしたが荷を下ろせてホッとしました。


[2012-1-24]