森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

楽劇《ワルキューレ》 バイロイト音楽祭2010


演 出:タンクレート・ドルスト
出 演:
ジークリンデ=エディット・ハラー
ブリュンヒルデ=リンダ・ワトソン
フンディング=ユン・クワンチュル
ヴォータン=アルベルト・ドーメン
フリッカ=藤村 実穂子

2010年8月21日
バイロイト祝祭歌劇場


幕が開いて最初の登場人物は、現代人の家族。
そのうち子どもが部屋にある謎の頭陀袋の中を覗いた途端、驚いて走り去る。
それは眠りに落ちたジークリンデだった。

部屋には電柱が倒れている。
後で分かるが、その電柱がトネリコでありノートゥングが刺さっている。

ウーン、またこのパターンか。
ラインの黄金の始まりでテレビを見ているのもあったな。

ティーレマンの音楽ですが、キビキビ・ハキハキしてはいるけどバレンボイムのように生真面目な印象ではありません。
非常に厚い弦があって、機動力の高い金管が現代的な引き締まったプロポーションで重なっていきます。

重くはないけど豊かで、キビキビしてはいるけどあっさりはしていない。
巨匠的とは言えないけど安定感のある確信に満ちた不思議なバランスで、ワーグナーの優美かつ荘厳な音楽が要求するものを満たしていきます。

この管弦楽がこの公演のキモです。

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ジークムント、 ジークリンデ、 フンディング)


ジークムントのヨハン・ボータは見た目は鈍重でも若々しく美しい声で安定した歌唱を聞かせます。
ジークフリートっぽい声ですね。
ミラノスカラ座来日公演のアイーダでは非常に不安なラダメスを聴かせていましたが、全く違い安定しています。


ジークリンデのエディット・ハラーは大変透明感のある美声で、イタリアオペラのようなドラマ性の表現力ではなく、ドイツ的な音楽造形的な表現力があります。

ボータ同様、見た目はウェイトオーバーでも声は透明で美しくスマートです。

フンディングのユン・クワンチュルはこの公演で数少ない身体を機敏に動かせる歌手の一人です。
表情も良く、声は明るく若々しいけど暗く重くフンディンクの怒りをたっぷり表現しました。


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ブリュンヒルデのリンダ・ワトソンが私はかなり苦手です。大変申し訳ないのだけど、見てるとウンザリしてしまうのです。
頭の中のブリュンヒルデ像とあまりに違いすぎるので。

歌については、何というか、尽きることのないパワーで全く破綻なく全ての音を鳴らしきる印象です。
そう、歌いきるというより、鳴らしきる。

輝かしくて、力強くて、凄いと思うけど、人間の声だけが持つ、言葉と一体不可分の情感が感じられない気がするのです。
贅沢でしょうか?


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フリッカの藤村実穂子さんはそんな歌手たちの中でも、ヴォータンにプレッシャーを与える役をしっかりとこなしていました。

体格と声の迫力では到底かなわないのだけど、無理せず柔らかな声に基づいた表現と演技で弱さを感じさせません。

見る方が日本人だからそんな事を考えてしまうけど、欧米人は慇懃で手ごわい妻を無難にこなしていたと感じたのではないでしょうか。








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ヴォータンのアルベルト・ドーメンは声質も歌もいいのですが、身体もやや弱いようです。
弱ったヴォータンを演じるにしても、声の通りが悪かったり身体を思うように動かせない様ではいけません。

ずっと足元の悪いステージでいつ転ぶかとか、疲労で歌えなくならないかとかいう心配をしてしまいました。









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舞台は下北沢の小劇場のようにシンプルだし、ライティングも中間色が美しいけどやはりシンプルなものです。

ジークムントが死んでしまったあと、舞台奥では現代の子どもが自転車を修理しているなど、考えこまねばならないような演出もあるのですが、私には全く不要に感じました。


始めに書いたようにティーレマンの音楽が素晴らしく、歌手たちもワーグナーのスコアやオーケストラに負けない堂々たる歌唱で、私はこのプロダクションをCDで聴いてみたいと思いました。

CDで音楽として聴けば、上に挙げたような難点を感じずに申し分なく素晴らしい《ワルキューレ》に浸ることが出来るでしょう。



[2011-7-23]