《ドン・ジョヴァンニ》 - サントリーホール
モーツァルト:歌劇《ドン・ジョヴァンニ》
指揮・フォルテピアノ:ニコラ・ルイゾッティ
演出:ガブリエーレ・ラヴィア
管弦楽:東京交響楽団
合唱:サントリーホール オペラ・アカデミー
出演:
ドン・ジョヴァンニ=マルクス・ヴェルバ(バリトン)
騎士長=エンツォ・カプアノ(バス)
ドンナ・アンナ=セレーナ・ファルノッキア(ソプラノ)
ドン・オッターヴィオ=ブラゴイ・ナコスキ(テノール)
ドンナ・エルヴィーラ=増田朋子(ソプラノ)
レポレッロ=マルコ・ヴィンコ(バリトン)
マゼット=ディヤン・ヴァチコフ(バス)
ツェルリーナ=ダヴィニア・ロドリゲス(ソプラノ)
指揮・フォルテピアノ:ニコラ・ルイゾッティ
演出:ガブリエーレ・ラヴィア
管弦楽:東京交響楽団
合唱:サントリーホール オペラ・アカデミー
出演:
ドン・ジョヴァンニ=マルクス・ヴェルバ(バリトン)
騎士長=エンツォ・カプアノ(バス)
ドンナ・アンナ=セレーナ・ファルノッキア(ソプラノ)
ドン・オッターヴィオ=ブラゴイ・ナコスキ(テノール)
ドンナ・エルヴィーラ=増田朋子(ソプラノ)
レポレッロ=マルコ・ヴィンコ(バリトン)
マゼット=ディヤン・ヴァチコフ(バス)
ツェルリーナ=ダヴィニア・ロドリゲス(ソプラノ)
2009年4月5日 サントリーホール
NHKの放送を録画視聴
言うまでもなくサントリーホールはコンサート専用のそれもワインヤード型ホールであって、オペラや演劇を演じる事は全く考慮されていません。
舞台と言う閉じたフレームの中で構成される、大道具の配置とライティングによる箱庭的構図とダイナミズムは非常に表現しづらいだろうし、奈落(舞台奥は電動式の山台があるはず)・舞台裏や吊り物を駆使したトリッキーな演出や回転床を利用した素早い場面転換などは全く不可能です。
あそこに良くこんな大仕掛けを作ったものです。
大道具の変更の度に時間がかかってしまいます。
緞帳が無いので模様替えが丸見えになります。
舞台と言う閉じたフレームの中で構成される、大道具の配置とライティングによる箱庭的構図とダイナミズムは非常に表現しづらいだろうし、奈落(舞台奥は電動式の山台があるはず)・舞台裏や吊り物を駆使したトリッキーな演出や回転床を利用した素早い場面転換などは全く不可能です。
あそこに良くこんな大仕掛けを作ったものです。
大道具の変更の度に時間がかかってしまいます。
緞帳が無いので模様替えが丸見えになります。
オーケストラは奥。
指揮者は観客席を向いています。
指揮者は観客席を向いています。
ただ逆に考えれば役者とオーケストラが全方位に露出しているだけに、音と演技がそれ自身で観衆を引きつけ縦横無尽に翻弄してくれれば、舞台と観衆の間にとてつもない一体感が生まれる可能性があると考えられます。
今回は録画による評価なのでそうした効果が味わえないのが残念ですが、神経を研ぎ澄ませて画面と音に集中すればその空気感をいくばくかは感じ取ることができます。
結論から言うと細かな批評的な視点に煩わされる気になれない、心から楽しめるドン・ジョバンニでした。
まず常人をはるかに超越したこのタイトルロールをどう演じるかです。
マルクス・ヴェルバは見た目には反抗的で反社会的な若者といういで立ちですが、声も演技も懐深く柔らかい、そしてしっかりと背筋の伸びた気品を宿したものです。
現実にこんな男が目の前に現れたら我々の周りのご婦人がたはみなどうなってしまうのか心配になることは間違いありません。
去年の公演で見るとキーンリーサイドの上品な優男も良かったけど、こうした荒々しさと優しさの交錯したドン・ジョヴァンニ像が本来のものだと思います。そういう意味ではとても素晴らしい配役だったと思います。
マルクス・ヴェルバは見た目には反抗的で反社会的な若者といういで立ちですが、声も演技も懐深く柔らかい、そしてしっかりと背筋の伸びた気品を宿したものです。
現実にこんな男が目の前に現れたら我々の周りのご婦人がたはみなどうなってしまうのか心配になることは間違いありません。
去年の公演で見るとキーンリーサイドの上品な優男も良かったけど、こうした荒々しさと優しさの交錯したドン・ジョヴァンニ像が本来のものだと思います。そういう意味ではとても素晴らしい配役だったと思います。
ドンナ・アンナのセレーナ・ファルノッキアとドン・オッターヴィオのブラゴイ・ナコスキは全くお似合いのカップルで、『まとも』で脱線しない良識側の人間像を良く体現しています。
ファルノッキアは少し安定感が勝ち過ぎていて焦燥感があまり出ていなかったようですが、決然としたところは十分評価出来ます。
ナコスキはドイツリートを歌わせたい素晴らしい安定感と均質な響きのテノールです。実直さと頼りなさがとても良く現れていて、堅実な表現力を持っていることがわかります。
ファルノッキアは少し安定感が勝ち過ぎていて焦燥感があまり出ていなかったようですが、決然としたところは十分評価出来ます。
ナコスキはドイツリートを歌わせたい素晴らしい安定感と均質な響きのテノールです。実直さと頼りなさがとても良く現れていて、堅実な表現力を持っていることがわかります。
ドンナ・エルヴィーラの増田朋子さんは、トレンチコーをまとっていつも旅の途中と言ったいで立ちで登場するのですが、その華を捨てたよそよそしさをもって決意を表現しているのでしょう。
他のキャストに比べて実力上の不安を感じるようなことは全くありませんでしたが、もう少し余力を持って歌い、いざという時の爆発力が表現出来ていたら良かったと思います。
他のキャストに比べて実力上の不安を感じるようなことは全くありませんでしたが、もう少し余力を持って歌い、いざという時の爆発力が表現出来ていたら良かったと思います。
マゼットのディヤン・ヴァチコフは非常に充実感のあるバスで、とても村の若者とは思えない尊厳のある歌いっぷりです。素晴らしいのだけど、もう少し無骨な感じがしても良かったと思います。
ツェルリーナのダヴィニア・ロドリゲスも村娘というには衣装が派手すぎるけど、演技と歌いっぷりはあっけらかんとした感じが良く出ていてツェルリーナらしさは満点です。
どちらも今回の演出では農夫と村娘と言う設定は捨てて、中流市民ということになっているかも知れません。
ツェルリーナのダヴィニア・ロドリゲスも村娘というには衣装が派手すぎるけど、演技と歌いっぷりはあっけらかんとした感じが良く出ていてツェルリーナらしさは満点です。
どちらも今回の演出では農夫と村娘と言う設定は捨てて、中流市民ということになっているかも知れません。
レポレッロのマルコ・ヴィンコは実はこのオペラで一番目立つコメディ担当だと思うのですが、少なくとも声を聴いている限りではとても立派なのです。
もちろんとても覚めた目で自分の境遇とドン・ジョヴァンニを評価しているのは台本からも明らかですが、狂言回しというより主役の一人になりきっていたような堂々たる歌いっぷりなのです。
それが良いか悪いかというと、演劇的にはもう一つ。音楽-歌唱としては堪能しました。
もちろんとても覚めた目で自分の境遇とドン・ジョヴァンニを評価しているのは台本からも明らかですが、狂言回しというより主役の一人になりきっていたような堂々たる歌いっぷりなのです。
それが良いか悪いかというと、演劇的にはもう一つ。音楽-歌唱としては堪能しました。
歌手全員に言えることですがひょっとすると空間が開かれているせいで、演技にも歌にも互いの掛け合いより観衆へ見せる・聴かせるということに意識が寄ったのかも知れません。
音楽的に全てが充実していたように感じられます。
音楽的に全てが充実していたように感じられます。
最後に騎士長のエンツォ・カプアノです。
ドン・ジョヴァンニは自分は何をしても許されると考えています。実際ドン・オッターヴィオもマゼットも全く相手にならないし騎士長は冒頭であっさり倒してしまうのですから、それだけの天性を持っていると考えられます。
復讐の鬼となってドン・ジョヴァンニを追い込もうとするドンナ・エルヴィーラですら心が揺れて決断がにぶってしまうのですから、全く手のつけようがありません。
これに決着を付けるのが騎士長の亡霊と言うことになります。これは結構唐突なので騎士長役にはものすごい説得力が必要となるわけです。
ドン・ジョヴァンニは自分は何をしても許されると考えています。実際ドン・オッターヴィオもマゼットも全く相手にならないし騎士長は冒頭であっさり倒してしまうのですから、それだけの天性を持っていると考えられます。
復讐の鬼となってドン・ジョヴァンニを追い込もうとするドンナ・エルヴィーラですら心が揺れて決断がにぶってしまうのですから、全く手のつけようがありません。
これに決着を付けるのが騎士長の亡霊と言うことになります。これは結構唐突なので騎士長役にはものすごい説得力が必要となるわけです。
演出はさほど大仰なものではありませんが、亡霊となった騎士長がずいずいと迫ってきて、相対する無敵のドン・ジョヴァンニがちっぽけな若造のように為す術なくやられてしまうのが、とても説得力を持って表現されていました。
ニコラ・ルイゾッティ指揮の東京交響楽団はとても快適なモーツァルトを鳴らしていました。テンポがよどみなくメリハリ持って活きいきとした演奏で、公演全体の活気を支えていました。
チェンバロではなくフォルテピアノを使用していましたが、無骨さがなくとても柔らかい響きをしていました。
チェンバロが鳴るとヘンデルに続く時代の作品だと認識してしまうのですが、こうしてフォルテピアノで聞くと古典派に連なる時期だという気がしてきます。
柔らかく優雅で成功だったと思います。
チェンバロではなくフォルテピアノを使用していましたが、無骨さがなくとても柔らかい響きをしていました。
チェンバロが鳴るとヘンデルに続く時代の作品だと認識してしまうのですが、こうしてフォルテピアノで聞くと古典派に連なる時期だという気がしてきます。
柔らかく優雅で成功だったと思います。
総合的に観てこの公演はとても素晴らしく、実体験したかったという思いがつのります。
[2010-2-5]