森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

泣かないチャイコフスキー - ウィーンフィル来日公演


チャイコフスキー 交響曲第5番

録画しておいたムーティウィーンフィルの来日公演を見ました。
サントリーホールウィーンフィルは出来るだけ行くようにしていたのだけど、2004年のゲルギエフ以来行っていません。
ちょうどそのゲルギエフで聴いたのがチャイコフスキーの5番、今日のムーティも5番でした。

私のチャイコフスキー像はロジェストヴェンスキー・ムラヴィンスキーカラヤンによって作られたものなので、世界的に共有されたステレオタイプと言えるでしょう。

一つには、喜怒哀楽が激しいけど、どんどん進んでいくリズムや流れを切り裂くアタックによって、一つの感情に浸っていられないような、自然界のリズムと心のリズムが相克する感覚。
また、サウンド的には表に向かっていても、気持ちは内へうちへと向かう、メソメソした感傷。
そして冷たさ。音によって暖かさや冷たさがどうして表現されるのかわからないけど、とにかくひんやりとした肌触り。

2004年 - ゲルギエフ

ゲルギエフの時は、どこもかしこも雄大な起伏と咆哮で、よくもまあ、こんな大味なチャイコフスキーを聴かせてくれたなと、夫婦で七万円のチケットが恨めしい思いで帰ってきたものです。

私の思い込みの何もかもがゲルギエフの演奏には無くて、ゲルギエフという不屈の男の格闘の歌というふうに聴こえました。
イメージ 1ウィーンフィルの演奏会のチケットとリーフレットは豪華なものですが、初めのころよりは質が落ちてきました。

イメージ 2シノポリの頃はもっと豪華でした。
でも演奏は・・(確か《ドンファン》と《巨人》だったかな)

2008年 - ムーティ

さてムーティですが、私はずっと以前からムーティが好きです。特に強烈なダイナミズムでありながら音楽の形が壊れず安定感を保っているところが好きでした。
しかし、スカラ座に長くいる間に音楽性が変わってきたようです。
あまり派手な立ち回りはせずに品位をもって深く歌わせる方向に変わってきたように思えます。
オペラにしては純音楽的に。管弦楽曲にしてはまろやかに。

今日録画でムーティの指揮ぶりを見てやはり昔と全く違うと感じました。落ち着きはらってオーケストラに指示を出すところは、昔とは180度違ったスタイルです。
当然オケピットで3時間以上もオペラを支え続けるにはそういう指揮が必要でしょう。
でも、管弦楽曲にはどうでしょう。
イメージ 3第四楽章コーダ前の休止

イメージ 4コーダのアインザッツ
この間オーケストラへ視線を向けることはありません。
この緊張の凝縮される休止に譜面を見つめたままとは、指揮経験者としてちょっと考えられません。

ムーティウィーンフィルを完全に掌握していて、微妙な表現上の工夫が全編にちりばめられていましたし、随所に見られる拍節の伸び縮みも思いのままに統率していました。
あの気まぐれなウィーン気質はどこへ行ったのかと不思議に思うほど律儀な従いぶりです。

音楽性としては歌謡性が重視されていて、弱々しい微妙な部分はテンポを落としてじっくり歌い上げ、強大な部分は大らかに雄弁に語るような演奏で、ブラスはまろやかに、ティンパニは柔らかく演奏されて、ステレオタイプチャイコフスキーとは違うものでしたが、ゲルギエフよりも遥かに精妙で豊かな音楽でした。
純音楽としてもオーケストラサウンドとしても超一級のもので、当日サントリーホールの聴衆は素晴らしい経験を共有したことでしょう。

でも何故か私の心は晴れませんでした。
昔は、チャイコフスキーと一体になって全身全霊で喜んだり泣いたりした、あの感覚は最早呼び覚まされはしませんでした。
実はゲルギエフが悪かったのではなく、私の感性が別なものを求めるようになっていたのかもしれません。

しかし、あの思いをさせてくれたロジェストヴェンスキーもムラヴィンスキーカラヤンも今の私よりずっと年上だったはずです。

なにかが心を塞いでいるのかもしれません。
大人になったり老いたりするとはこういうことも通り過ぎていくことなのかもしれませんが。
チャイコフスキーが嘆き悲しんでくれる日がまた来るでしょうか。

[2009-12-6]