森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

《ばらの騎士》 ザルツブルク祝祭大劇場こけら落とし

リヒャルト・シュトラウス ばらの騎士
出演:
元帥夫人=エリーザベト・シュヴァツコップ(S)
オクタヴィアン=セーナ・ユリナッチ(Ms)
ゾフィー:アンネリーゼ・ローテンベルガー(S)
オックス男爵=オットー・エーデルマン(Bs)


収録:1960年8月6日 ザルツブルク祝祭大劇場
演出:ルドルフ・ハルトマン


ザルツブルク祝祭大劇場のこけら落とし公演です。
ただし、映像作品として仕上げるためにカメラ配置やライティングを工夫し、一部演出を変更した上で、映像のみを後撮りしたものだそうです。
6回行なわれた公演のうち8月6日だけがシュヴァルツコップで、他はデラ・カーザでした。

音はかなり貧弱で1960年ならもっといい音の録音はたくさんあります。
映像は、階調が失われているのでコントラストと彩度を上げているのでしょう、かなり濃厚かつ所々白飛びした映像です。

しかし内容は圧巻の一語に尽きます。
ウィーンフィルカラヤンは、リヒャルト・シュトラウスが《サロメ》や《エレクトラ》から突然方向転換した《ばらの騎士》を思う存分甘美に鳴らしています。私には『ばらの騎士はこんな音』と想像するそのままの音を聞かせてくれます。

何もかもが超一流で固められた上演なので、キャスト一人ひとりを評価することはしません。ただ、シュヴァルツコップだけは言及しておかなければならないでしょう。

彼女の演じる元帥夫人は『可愛いテレーズ』と呼ばれた娘が有閑マダムになっているわけですが、享楽に堕しているわけではなく、また色あせた人生をただ観照しているだけでもなく、批判精神と諦念の間で葛藤しているのです。
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寛大さばかりを強調しても、(人生の華や愛を失うことへの)無念さに偏っても元帥夫人=マリー・テレーズを演じたことにはなりません。

その点シュヴァルツコップの演技力は恐るべきもので、表情はもちろん一挙手一投足・五指の角度、何もかもが迷いと無念を表現していて、どんなに優れた舞台俳優や映画俳優と比べても全く見劣りするものではありません。
しかも歌唱が『歌う快感』に堕することが一切無く心理表出しています。ここまで徹底した『演技』を私はオペラでは他に見たことがありません。(そんなにたくさん観たわけではありませんが・・)

これによって第一幕のモノローグや第三幕の三重唱から退場までがズッシリと身につまされるのです。
そしてこのシュヴァルツコップの演技があってこそ、ユリナッチ(オクタヴィアン)のストレートさやローテンベルガー(ゾフィー)の軽やかさが活きてくるのです。

一方オックス男爵の俗物ぶりが嫌悪感を通り越して笑ってしまうほどなので対決色が薄まったことも、この上演に内面性を与えた要因かもしれません。
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三重唱から後は、感動で頭が熱くなって朦朧としたままカーテンコールを迎えました。
劇場ならしばらく立ち上がれなかったでしょう。
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美術と衣装は実験的な所は全く無く豪華絢爛で美麗。
ライティングやフレーミングも、映像作品用として撮っただけあって止め絵的に評価しても美しいものです。
第二幕などは劣化して白が飛びがちな映像が図らずもこの世とも思えない美しさを演出しています。
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人生・音楽・演技・美術、人間の作り出した総合芸術の一つの頂点ではないかと思います。
地形や建物などの文化遺産世界遺産などと同様、この映像記録は20世紀の素晴らしい遺産の一つに間違いないでしょう。

それにしても元帥夫人のセリフ
『私は憤慨しています、世の中の男性全てに対して』
『心穏やかに耐えていこうと誓ったのに・・』
年配の女性に共感できる歳になったのでしょうか?胸にズキッと来ます。

[2009-11-7]