森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

ヴィスコンティ 《山猫》

《山猫》 完全復元版

監督:ルキノ・ヴィスコンティ
音楽:ニーノ・ロータ
出演:
ドン・ファブリツィオ=バート・ランカスター
タンクレディ=アラン・ドロン
アンジェリカ=クラウディア・カルディナーレ
製作年:1963年
イタリア/フランス


時は1860年シチリアにも変革の波が押し寄せるが・・

ヴィスコンティらしく豪華絢爛を極めつくした映像。
しかもその豪華さはハリウッド映画のような張りぼてではなく、実際に建造され貴族の生活を何世代も包容してきたリアリティのあるものです。
加えてシチリア島の岩と砂ばかりの荒涼とした風景とコントラストを成し、貴族社会の倦怠感の他に身体的渇きや疲労感も感じられます。

しかしこの映画でもっとも私が惹きつけられたのはバート・ランカスターの演技です。
その映像美とストーリーの重さを全て背負って完全に支えつくした彼の存在感こそがこの映画を支配しています。
出演時間の長さと物語の主題を体現しているという意味では、ゴッドファーザーにおけるマーロン・ブランド以上だと思います。

彼の演じるファブリツィオは時代の流れに迎合しようとはせず、しかし頑迷な保守主義者では決してなく、変化を肯定しながらも自らは滅びる側であるという確固たる自覚の元に行動します。

アラン・ドロンクラウディア・カルディナーレの瑞々しい若さと完全に隔絶した重量感と深みが凄みへと高まっています。
その気高さに加えて優しさと諦念が、美しい映像を背景にずっしりと伝わってきます。

イメージ 1滔滔と滅びの哲学を語る
物凄い演技だ

イメージ 2輝きだけをまとった二人

最後は新時代の訪れを物語る処刑の銃声を背景に未来を見つめるアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレ、そしてただ一人で疲れきった身体を引きずるように庶民の町に消えるバート・ランカンスターの対比で幕を閉じます。

このラストシーンのファブリツィオはまるでショパンノクターンOp.48-2でも鳴っているような佇まいですが、ヴィスコンティそんは感傷を語りたくはなかったのでしょう。叙事詩の締めくくりとして、優雅ではあってもドライなFINEになっています。
アンシャンレジームを否定も肯定もせず、ある人生とその確固たる流儀の終焉に対する観照に徹しているようです。
しかし、自分の人生のゴール(=終焉)を意識することのある大人には単にドライなリアリズムなどではなく、とても愛おしい映画に思えるはずです。

イメージ 3ワルツを踊る二人
主役を譲る儀式か?はじめは申し出を断るファブリツィオだったが。


しかし、この映画が20分以上カットされていたとは信じられません。
どこにもカットできる部分は見当たらないのですが・・


[2009-10-4]