森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

CD 酷寒の冬の旅 シェーファー

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イメージ 1シューベルト 冬の旅
ソプラノ:クリスティーネ・シェーファー
ピアノ:エリック・シュナイダー
製作:onyx
輸入・発売:株式会社 東京エムエスプラス

プライ、ヒュッシュ、ホッター 熱い冬の旅

私が初めて通して聴いた《冬の旅》はプライ(エンゲル盤)ですがこれは優しくて熱く、少し泣きの入った真摯な歌唱でした。どちらかと言うと語り部としてよりも一人称的な感情移入に傾いていた様に思います。
その後実演も聴きましたが、レコードより遥かに深く重みのある声に感動しました(音程が・・)。

そして、私の愛すべき《冬の旅》にはヒュッシュ、ホッターがあります。
彼らの冬の旅には詩の深さに音楽の流麗さと歌唱のコクと情熱が宿っています。
それに加えてこの時代のアーティスト特有の、尊厳と品位が備わっています。

彼らの冬の旅を聴いていると心地よさの中から熱いものがこみ上げてきて、この1時間余りの旅がとても愛おしいものに思えるのです。

ディースカウ 孤高のパフォーマンス

一方で、全く独特で孤高の価値を持っているものに、62年と72年のディースカウがあります。どちらもムーアの伴奏によるものです。

これらは、他の歌唱に慣れた耳には表現過多で、シューベルトのメロディーラインの美しさを損ねたものだと感じます。
私が初めて聴いたのは中学生のときでディースカウ自体に馴染んでおらず、世間で評価が高いのを非常に疑問に感じたことを覚えています。

しかし、聴きこむとこれは全く恐るべき集中力で掘り下げた語りであり歌唱であって、音楽の概念を超えたパフォーマンスなのだと確信するようになりました。
真夏も真冬もエアコンと照明を落として、何度も何度も聴き込みました。


そんなこんなで、それ以降も様々な《冬の旅》を聴いてきましたが、もうだれも新しい高みや深みへは連れて行ってくれないのか、と思っていたのです。

シェーファー

クリスティーネ・シェーファーという歌手にそれまで特別な思いがあったわけではありません。もちろん《冬の旅》と結び付けて考えることなどあるはずもありません。
ところが先日ザルツブルクフィガロの録画を観て、彼女のケルビーノの余りの素晴らしさに、何かこの人のソロはないかと探してこの《冬の旅》を見つけたのです。
「あのケルビーノの歌唱なら納得の行く冬の旅を聴かせてくれるかも知れない」
直感的にそう思いました。

結論から書いてしまうと、シェーファーの《冬の旅》は期待を遥かに超えた、戦慄的な旅の記録でした。

彼女の歌唱の特徴は研ぎ澄まされたコントロールです。
歌と言う芸には少なからず声を発するという事自体の感覚的な喜びを求めるものですが、彼女にはそういう方向に興味はないらしく、ひたすら詩と楽譜を研究し、たまたま声でそれを再現したとでもいうような、「歌としては」ドライな感覚を受けます。
しかし、精密で均質なトーンが全てのニュアンスを明鏡止水のように映し出し、そのみずもが情熱的な声でかき壊れてしまうことはありません。

従ってこの《冬の旅》には『朗々とした』『情熱的な』といったものは含まれていません。
ホッターには勿論、ディースカウも若者を見守る暖かさや情熱の共有と言うものに満ちていて、それが聴き手を熱くさせるのです。しかしシェーファーの歌唱からはそういう魂の声は直接的には響いてきません。

では何が凄いと感じさせたのでしょうか?
その前にピアノについても述べておかなければなりません。

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エリック・シュナイダー

このピアニストについて私は何も知りません。CDの冊子にも全く何も書かれていません。
この《冬の旅》において、この人はシューベルトの心地よいピアノパートを心地よく弾こうとはしていません。
そして背景描写的なアクセントや起伏はほとんどピアノに任されていると感じます。義太夫の三味線やびわ法師のびわのように情景描写や効果音や歌に対する合いの手の役割を担っています。
また、決してテンポがゆれないわけではないシェーファーの歌唱に呼吸を合わせ寸分違わずぴたりとつけています。
リズムと色合いを的確に付けるだけの伴奏に対して、どれだけタッチの多彩さが必要でしょう?そもそもシューベルトの伴奏パートの革新性はこういうことだったはずなのですが、ここで改めてそれを思い知りました。
これだけの表現力をもったピアニストを全く知らなかったとは不覚です。

酷寒の描写

シェーファーはこの巧みな背景描写や合いの手を得て思う存分に自分の歌唱に没頭しています。一歩一歩踏みしめる霜の音のような、身を切る風の冷たさを感じるような、そんな冷徹な歌いぶりです。
若者本人の一人称的ある種の投げやりさや共感から来る第三者的温もりもあまり感じられません。
これは中央ヨーロッパの厳しい冬の真ん中で精神的崩壊への旅を歩む若者を描き出した自然主義的叙述です。一面真っ白な《冬の旅》です。
その冷たさ、恐ろしさは《うた》という芸術・芸能に今までに聴いたことのない全く新しいものでした(オペラ全体としてはあるけれど)。
始めに書いたヒュッシュやホッターの熱く愛おしい《冬の旅》ではなく、戦慄すべき《冬の旅》です。

しかしここで彼女の歌唱が無味乾燥なものだとは思わないでください。冷たいのと味がないのとでは全く意味が違います。
彼女の歌唱の精密さは音楽的なニュアンスを階調豊かに表出するためのものです。
もちろん、ホッターやクヴァストホフなど男性歌手の厚い胸板と熱い息遣いから発せられる情熱的豊かさとは全く違ったものです。
北方系の民族の言語には白のバリエーションを表す単語がたくさんあるそうですが、そんな豊かさに似ているかもしれません。

これはピアニストのエリック・シュナイダーとの共同作業で実現した全く新しい、そして前人未到の《冬の旅》です。
シューベルトがこれを書いた時ホッターの歌唱は想像できたと思いますが、ディースカウやシェーファーの歌唱は想像つかなかったのではないか、そんなことを思わず感じてしまいます。少なくとも今ある私の感性を磨き深めただけでは到達できない《冬の旅》です。
まさに芸術と人の感性の無限の可能性を感じさせてくれるものです。

ただし、《偽りの太陽》と《辻音楽士》は崩壊を描いた過去の名演と逆に、完全に行き場を失った若者に対する母性的救済を、その先に待ち受ける永遠の安らぎを感じました。これは私の思い込みに過ぎないかもしれませんが、《偽りの太陽》で哀れみの熱い思いを、《辻音楽士》で終焉の深い悲しみを確かに感じたのです。


[2009-9-6]