森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

宇宙飛行士ピルクス物語 (下) スタニスワフ・レム

イメージ 1 宇宙飛行士ピルクス物語(下)
作者:スタニスワフ レム
翻訳:深見 弾
出版社:株式会社 早川書房(ハヤカワ文庫SF)


頼りなかったテスト生のピルクスがもう熟練の船長となって、最終話では引退まで暗示されます。
第一話『テスト』や『パトロール』で描かれたように、論理を超えた直観力で不測の事態に対応する能力が開花し、部下や企業から頼られる存在になっています。

この下巻では、4話中3話がロボットやコンピューターと人間の対決が主題になっています。
レムは人間の知性と擬似的な知性の対比が大きなテーマだったようです。


『事故』は簡単な定時観測から戻ってこないロボットの捜索と事故原因に対する考察をします。
レムは熱心なクライマーだったに違いありません。
突起や裂け目を探し、しがみ付き、ハーケンを打ち込む、その指と腕の筋肉に力が漲る描写や目眩を感じるほどの過呼吸感を文章が伝えています。
しかし、その渾身のロッククライミング描写が・・・

レムは皮肉っぽく語っていますが、私はこの話をいわゆる『強いAI』の萌芽に関する寓話と受け止めます。


『ピルクスの話』では、異星人もしくはその文明とのファーストコンタクトが描かれますが、やはり皮肉っぽく、儚い話になっています。
おそらくレムは日常で遭遇する様々な発見が発見として認識されず、無数の有意義な事が見過ごされていること、そして想像以上の可能性がこの世界には秘められていることを指摘したかったのではないでしょうか。


『審問』は最新のロボットと人間の乗組員を同時に受け入れブラインドテストする話。
ピルクスを含む全ての『人間の』搭乗員がロボットを敵対視しているのが少し違和感があります。
レムは非常に精緻な論理的思考をする人なので、擬似知性それ自体はテクノロジーとして歓迎しても、人間に成りすまして社会に出てくることには否定的だったのでしょう。
この話のような極端な状況がなければ、人間は簡単にだまされてしまうことを知っているからなのだと思います。


『運命の女神』は着陸時に事故を起こした自動操縦プログラムの話。
ここに登場するコンピューターは今で言う『エキスパートシステム』の一種です。
エキスパートシステム』とは、熟練した人間がコンピューターをトレーニングして判断の基盤を形成するものですが、我々現代人は『エキスパートシステム』の限界を良く知ってしまっているので、この話だけは少し陳腐な印象を受けました。それにもかかわらず、この時代にエキスパートシステム的な手法の限界を看破していた事については驚くばかりです。
(ブームのとき私も「こんなもん、うまく行くわけない」思っていましたけどね!)

ピルクスという人物はしっかりとした論理的基盤を備えているにもかかわらず、それを否定する、あるいは上書きしていくイマジネーションを重んじる保守的な人物に仕立てられています。
そこに、ストレートなSFを好む人は戸惑いを感じるでしょう。
人間の意識というものは、決して表層に現れない深層心理と生理機能の同時多層的なせめぎ合いが、わずかに顕在化した部分に過ぎない。
それをSFが得意とする極限状況を背景にして描き出すことが、レムのここでのテーマだったように思います。

そして誠意と良心・・
独力で生きていけて(活動を継続できて)ルールに基いたギブアンドテイクにのみ縛られるロボットに、そういう『種の保存』に関する心理機制が芽生えることはないのでしょうか?
しかし永久に人間のフリをして、たとえこの機械が自己崩壊してもそれを貫徹するとしたら、人間にとって本物の人間性と擬似人間性と、なにか違いがあるのでしょうか?
ソラリス』で感じた、認知の世界で人間の本質が確固たる物ではなくなっていく感覚、それをこのピルクス物語のエピソードは否定して来ますが、私にはますます解らなくなります。


構成
事故(1965)
ピルクスの話(1965)
審問(?)
運命の女神(1973)
(初出年はポーランドWIKIPEDIAより)


[2009-5-7]