森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

「いのち」に思うこと

日本では自殺者が10年連続で30,000人を超えたそうで、2008年も12月の統計がまだですが、まず間違いなく30,000を超えそうです。

私もこれまでの人生で何度も『死』=『自我の消滅』をシミュレーションしてみたことがあります。

初めて『死』を想像しようとしたのは小学校二年生の時だったと思います。

「自分がいなくなる」って、なんだろう。「自分が見て感じている世界が永遠になくなってしまうってどういうことなんだろう。」
そう考える自分もいなくなってしまう。
その一切の想像を拒む計り知れない状態に恐ろしくなって、二ヶ月ほど眠れなくなったことを思い出します。

その時は生と死への探究心からでしたが、後には逃げ道として考えたことも、もちろんありました。

私は挨拶文にも書いたように無神論者であって、生命は生化学反応に過ぎないと信じています。
従って、生命の尊とさとか人生の価値を、客観的には認定していません。
『尊さ』『価値』という概念自体が、人間の創造物に過ぎない、と心底信じています。
私にとって「いのちをいつくしむ」のは、芸術を愛するのと同じく、個人の楽しみと自分に課した生き方の流儀に過ぎないのです。

だから、逃げ出したくなったとき、
「俺が死んでも死ななくても、この宇宙には何も起きないし何も変わらない。増えるものも減るものも、何もないんだ」
「だったら、成り行きに任せて、自分の知恵など及ばない人生と言うものを今しばらく見届けてみよう」
そう思って来たのです。

そうなると、あっさり諦めてしまう人もいるかもしれませんが、私は好奇心いっぱいなので、この一つの小さな存在が足掻く姿を面白おかしく見てみようと、客観的な自分が主観的な自分をコントロールしているのです。

久しぶりにこういうことを書くのは、かなりピンチになっているからなのですが、とんでもなく負けず嫌いなのでまあ、私自身はおかしなことになることありません。

そうではなく、世の中の、瀬戸際の人たち。空っぽからの自分を、再スタートしてみませんか?
苦難というものは、人生と言うゲームが新展開になる良いきっかけかもしれません。
どんな良い生活も、「この人生はこの流れで終わりまで行くのか」と思ったとき、モチベーションを維持できなくなります。
「人生と言うものが、だいたい見えたな・・」という状態も、心底やる気がなくなるものです。それよりは、ピンチの方が、面白くはないですか?

生きとし生けるもの、全てにとってゴールは「死」なのですから、なにも急ぐことはありますまい。

[2009-4-11]