森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

映画 ラ・ボエーム ネトレプコvsビリャソン 濃密な空気感


監督:ロバート・ドーンヘルム
指揮:ベルトラン・ド・ビリー
オーケストラ:バイエルン放送交響楽団
合唱:バイエルン放送合唱団
出演:
ミミ=アンナ・ネトレプコ
ロドルフォ=ローランド・ビリャソン

新宿「テアトルタイムズスクエア」にて

映画 ラ・ボエーム 美しい映像と濃密な空気感

オペラの形を極力崩さずに映画ならではのカメラワーク・セット・ロケ・ライティングで、極めて美しく撮り上げた、素晴らしい映画でした。
見終わって6時間近くもたつ今でも、感動がぶり返してきます。
終盤の凄絶さは間違いなく一生記憶に残るでしょう。


第一幕

冒頭の雪の積もったパリの町並から、寒さ・冷たさが伝わってきます。
ユトリロが描く、都会の街角の煤けた雪景色といった風情です。
若者たちの下宿部屋がこんなにも冷えびえと感じられたのは初めてです。

狭くむさ苦しい男所帯の散らかった様子も、映画らしく細部まで完璧に仕上がったセットと緻密なライティングで、しっかりとした存在感を持って我々観客を引き入れます。

オペラのようにミミは突然入ってくるのではありません。自分の部屋でこの若者たちの他愛もない会話を聞いて興味をそそられていることが、映し出されます。

ミミが部屋に入ってきてからは映画らしく集中力のある視線で二人の挙動を追いかけ、ロウソクと鍵の駆け引きがハッキリと見て取れます。
オペラでストーリーを知らない人が見ると、この駆け引きを見落としてしまいがちだと思うのですが、映画にそれはありません。
ロドルフォとミミの心理がハッキリと描かれます。

窓は汚れと霜で、外の風景をハッキリとは素通しにしません。
その窓を通して見える酷寒のパリの夕景は、重苦しく雑然としています。
二人の愛の芽生えが確かになりだすと、その窓から望む風景が清々しい青空を背景に流れる雲に変わる、などはちょっとあざとい演出でしょうか。

消えてしまったはずの二本のロウソクですが、「なんて冷たい小さな手だ」では画面前景で寄り添うような二本のロウソクが灯り、その合間を通した向こうに二人の姿がピントを外して映ります。
実に粋で美しい演出です。

「ああ、愛しき乙女よ」では、私は情熱の奔流に完全に呑み込まれてしまいました。

第二幕

雪で真っ白なパリの繁華街とカフェ・モミュスの色とりどりの店内のコントラストが見事です。
カメラが外に出たり中に入ったりすることで画面全体の色が変わるのは、舞台では不可能な演出です。

ムゼッタやパトロンやマルチェッロの表情をきめ細かく捉えていくことで、賑やかさに流されがちなこの場面を引き締めて、心理戦へと注意を向けさせます。

合唱も子供らも常にカメラに写っている必要はないし、往来の人々が合唱を歌う必要もないので、整理された構図が街の賑わいと店内のドタバタと人物の表情をうまくミックスして描いています。

第三幕

この場面は、ふた組のカップルのエピソードが交錯して、いつも視線と耳をどこへ向ければいいか困るのですが、やはり映画ですのでカット割りで誘導してくれます。
が、これは好みが分かれるところでしょう。

荒涼とした雪景色の中、弱ったミミが激しく降る雪に打たれながら現れる。
その顔には完全に死相が宿っています。
大スクリーンにこれでもかという程に悲劇の始まりが映し出されます。

第四幕

ラストシーンに至るまで、実に濃密な空間と時間が描かれます。
窓から射す光も寒々とした部屋の様子も、貧乏くさいドアの開閉の音も、何もかもが濃密な時間を際立たせています。

舞台上の空間と客席のある種の距離感というものが、映画では全く無いのです。

カメラは部屋の中を様々な角度で写し、各人各様の動きをつぶさに追います。
観客はまさにその場の一人になりきるのです。

間奏の間のただ見つめ合う二人のシーンでこれだけ胸を打たれるということは、舞台劇では稀有なことです。
これは、オーケストラも褒めておかなければいけません。素晴らしく柔軟で美しい演奏でした。

終幕時には、嗚咽をこらえなければならない程でありました。

映像

青を基調とした大変美しいものです。
ライティングはシーンに応じて実に緻密に行っており、たとえばミミの顔が目から上だけが外光で照らされ、気持の高揚に伴って下まで広がっていく、というように、光と影をじつに巧みに用いたものです。

画質は一見格調高いクラシックフィルムのようですが、よく見ると粒子感はあまりなく細部までよく描写されています。それでも細部が煩わしくないのは見事です。

オーバーラップや白黒など、舞台では不可能な手法は程々に、しかし効果的に使用していました。
ただ、一幕と四幕で若者たちがじゃれ合う絵空事の会話には、空想上の扮装をオーバーラップさせるなどの工夫もあったらよかったのでは、と思いました。

歌唱

いつものネトレプコには、少し飲み込んだようなこもった感じの声質が気になることがあったのですが、アップの多用される映画で見ると容貌に合った声質で違和感が全くありませんでした。
また、身振りの演技に対して声の演技がもう少し、と思うこともあったのですが、映画では顔の表情が極めて豊かなので、声は旋律を美しく鳴らすことで、優美な音楽的感興を高めていて正解だったと思います。

ミミにしては色っぽすぎるという意見もありますが・・
当時のパリで「一人暮らしの出稼ぎ娘」の総称である「お針子」。猥雑なパリを懸命に生きる彼女らのうちの一人であるミミ。
そういう意味においては、従来の純真でおとなしい娘、というイメージより、ミュルジェの原作にある「フランシーヌ」と「ミミ」をプッチーニが合体させたという人物像に近づいていると思います。


ビリャソンはいつもどおり。少し声が重い気がしましたが、音響のためかもしれません。
ただし第一幕の引っ込みで、ハイCに挑戦していない、というか4度でハモっている!
なんだそれは、確か演奏会形式上演のCDではやっていましたよね?
(加筆:これは私の勘違いでした。DVD《マノン》のビデオクリップでやっていました。)

ラストシーン

私の頭の中のラ・ボエームではロドルフォの打ちひしがれた姿がラストシーンなのですが・・
凄絶なほど美しかったけど、何かが足りない感じは拭えませんでした。


舞台と映画

同じ演目を舞台と映画で味わうことはしばしばありますが、これはもちろん別物ですね。

人によって感じ方は違うでしょうが私は・・
舞台では運命や状況という抽象的なものの、逃れようの無い生々しさと存在感が、映画では場の空気感や物の質感の生々しさと存在感がより感じられます。
舞台では生の音や声による存在感の迫力、映画では表情や光の変化による感情表現の迫力を感じます。

この、ラ・ボエームは舞台とはまた全く別の芸術として、傑出した出来であると思います。

あら捜しをする気にはとてもなれませんので褒めてばかりですが、それほど感動したという気持ちを正直に綴っています。


[2009-2-15]