森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

メト、ホロストフスキーの『エフゲニ・オネーギン』

チャイコフスキー 『エフゲニ・オネーギン』

出 演:
イメージ 1
 タチアーナ=ルネ・フレミング
 オネーギン=ディミートリー・ホロストフスキー
 レンスキー=ラモン・ヴァルガス
 オリガ=エレーナ・ザレンパ
 グレーミン公爵=セルゲイ・アレクサーシキン

合 唱:メトロポリタン歌劇場合唱団

WOWOWの放送を録画視聴)


全体にチャーミングに仕上がった舞台というところですが、逆に言えばココが凄いという箇所が余り見当たらない気もします。

美術や衣装やライティングはとても素直な美しさで当たり前のものが当たり前のところに有るという塩梅。
演出は映画のフラッシュバックやオーバーラップを模したと見える工夫が有るくらいでシナリオを素直に読んで想像できる範囲を踏み越えてはいません。

ゲルギエフマリインスキー劇場での『くるみ割り人形』でも感じたことだけど、オーケストラ・コンサートの時のような振り幅の大きい音楽はせず舞台を引き立てる繊細な背景に徹しているようです。
エフゲニ・オネーギンの音楽は出だしはもっと勿体ぶって雰囲気を盛り上げることができるだろうし、ラーリンの舞踏会もポロネーズももっと豪華絢爛にできたはずなのに快速に処理して、オネーギンの孤立感タップリかつギラギラした演技を浮き立たせているよう感じられます。

さてそのオネーギンですがホロストフスキーは重く深みのあるバリトンでオネーギンの鬱屈した内面と威圧的な態度を十二分に感じさせます。
優秀で美しい男が誰にも咎められずに子供のまま大人になり手がつけられないという感じがよく出ています。

非を咎められてもごめんなさいが言えず逆に相手を嘲笑し後に引けない彼はついに親友のレンスキーを決闘で殺してしまう、と言えばイタリア・オペラでは悔いて嘆き悲しむシーンですがホロストフスキーのオネーギンはそんな嘆きをレンスキーや自分自身に対する怒りに転化してしまっているように見受けられます。
優秀で美しく実は薄っぺらで幼児的な性格のオネーギンをあまりに忠実に演じ本当に憎らしくなります。

堂々たる歌唱も素晴らしいけど彼には最後の最後で恋に落ちた場面以外あまり美しいメロディーが用意されていないのが残念です。
イメージ 2

そして相方のフレミングですが、恋をして舞い上がるあたりは歌唱に力感が漲りすぎていてチアリーダー部の学生みたいであまりいただけません。
オネーギンなんかに近づいて、およしなさいアブナイよという親心があまり湧いて来ません。
公爵夫人になってからの彼女もキビキビしていてアメリカン・セレブリティ。ヨーロピアンでもラシャンでもない。

それにオネーギンに蔑まされる未熟な田舎娘から脱皮し美しい羽を広げたという変化も感じられませんでした。
パリ・オペラ座でのマドレーヌ(カプリッチョ)は本当に素晴らしかったのだけどメトではどうもあの高貴さが出てこないようです。環境の違いがそうさせるのでしょうか?

ただしオネーギンとの明暗のコントラストはよく出ていると言えるでしょう。

それにしてもこの二人の前では、結構強い声だと思っていたラモン・ヴァルガスが極めて普通に聴こえてしまうのは何としたことでしょう。


全体的にたいへん調和のとれた良い舞台でしたが、もっとこれ見よがしなロマンのうねりや不条理の闇を見たかったとも感じるのです。
最後の「この恥辱!憂鬱!惨めなわが運命よ!」というセリフには明るい部屋で椅子に突っ伏すだけでなくもっと敗北感いっぱいのダークな演出が欲しいかったところです。
せっかく冒頭の回想シーンにつなげるなら、冒頭と同じ舞い散る枯葉の下、というのでも良かったのではないかなあ。


前説のバリシニコフ。あまりの若さに驚きました。息子に同じ名前を付けたのかと思ったほどです。

[2012-10-20]