森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

ティーレマンの 《影のない女》 (少しショルティ)


合 唱:ウィーン国立歌劇合唱団
演 出:クリストフ・ロイ
出 演:
 皇帝= スティーヴン・グールド
 皇后= アンネ・シュワーネウィルムス
 乳母= ミヒャエラ・シュスター
 バラック= ウォルフガング・コッホ
 バラックの妻= エヴェリン・ヘルリツィウス


2011年7月29日 ザルツブルク祝祭大劇場

NHKの放送を録画視聴


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まず感じるのは演出の奇妙さです。

現代の舞台に現代の服装で人物たちが立っている。そこまではもう当たり前の現代演出。

ところが歌手たち皆譜面台を立てて分厚いスコアをめくりながら歌っている。

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奥の二階にはモニタールームがあり様子を監視している。

助監督らしき人物が譜面台や椅子を動かしたり、歌手たちに支持を与えたりします。

どうやらオペラの録音中という設定のようです。リハーサルなら譜面台に張り付きはしませんから。


助監督がせわしなく動きまわったりする緊張感のない舞台でどことなく他人毎のような乳母のシーンから始まり非常に気の抜ける印象です。

皇后は登場した時から終始不安気な表情で、演技も歌い方も控えめ。
とてもではないけどスタンドプレーを披露するような体勢ではないため、冒頭の難所2ヵ所でコケてしまいます。
(もっともここは多くのベテランが勝負に破れるか逃げていますが)

イメージ 4バラックはどう見ても呑気なサラリーマンだし、妻は神経衰弱の専業主婦。

特に妻役のエヴェリン・ヘルリツィウスは最高度にエキセントリックな表情を演じてとても憎らしいはずなのですが、声質が大変若々しく爽やかなので、同情の余地ありと感じられます。






バラックの妻。怖い!)


そんなこんなで演出と演技で家庭崩壊系チグハグ人間関係ホームドラマを見ているような気にさせます。

夫婦の葛藤といたわり合い。不妊と子供の素晴らしさ。舅姑のプレッシャー。階級差別と良心。もともと様々な要素の絡みあうこのオペラにクリストフ・ロイはどのような意味づけを与えようとしたのか?
余分な謎を加えなくても良いのに、と私は思うのですが。

それよりも、音楽の美しさを素直に堪能したい。
話はよくわからないけど最期に全て丸く収まって、天から降ってくるまだ見ぬ子供らの声を聴きながら感動の渦の中で大団円を迎えたい。

このオペラを観るときはそんなものを望んでいるのです。

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大団円はコンサート形式の舞台。

晴れやかに終わる・・・はずが・・・

いやですね、このムード。










しかしそれの感動をティーレマンウィーン・フィルはタップリと味あわせてくれました。

オーケストラは全ての部分で美しく、広く深く、力強く、360度どちらを向いても美しい森や山岳風景のような音楽を聴かせてくれました。

10何年か前にティーレマンを初めて聴いた時は、面白い音楽をやるヤツ、というクラシックではあまり名誉とは言えない印象を持ったのですが、なんと素晴らしい音楽をするようになったのでしょう。

最近ワーグナーベートーヴェンも聴きましたが、どちらもサウンドの美しさと構成力を両立した素晴らしい演奏でした。

このリヒャルト・シュトラウスも実に見事。
ウィーン・フィルの美質をここまで引き出してくれて、しかもまだまだ先のある指揮者が登場してくれて嬉しく思います。

同じザルツブルクウィーン・フィルでも少し前に聴いたショルティ魔笛とは同じオーケストラとは思えない程伸びやに沢山の花が咲いたような演奏です。

それで、1992年のザルツブルク音楽祭ショルティウィーン・フィルの《影のない女》を久々に取り出してみました。

こちらは魔笛と違って、歌手も巻き込んだ緊密なコントロールが芸術に貢献していて、男性的なダイナミズムに音色変化の妙を存分に聴くことができる力強い名演でした。

今回のティーレマンが360度どこを見ても、細かく見ても大きく捉えても、美しさが散りばめられた森に入り込んだようだとすれば、ショルティは目の前の大パノラマに吸い込まれそうになる、そんな美しさの違いを感じられて、どちらも捨てられないと思いました。


[2012-1-8]