森羅観照記

つれづれなるままに・・。当世ではそれを「チラシの裏にでも書いとけ」と呼ぶそう。

こっちを見て 森麻季さん

今日の記事は森麻季さんをテレビで観たのがきっかけですが、そのリサイタルの感想ではありません。

この人の歌唱は派手な声楽的演出を狙ったショーではなく、器楽のリサイタルのようにじっくりと音楽を聴かせるものです。

大歌手の中にはあまりに声のパフォーマンスに偏りすぎ、音楽の基礎である音程がフォーカスを失ってしまっても気に留めない人が少なくありません。
森麻季さんはビブラートが適切で常に的確なピッチ感が音楽の型を支えています。

声区を乗り越える瞬間と言うのは歌の快感の一つですが、大げさすぎず、さりげなさすぎず、音楽の形を壊さずにとても気持ちのいいタメを聴かせてくれます。

音程に関わらず眉間の共鳴が安定していて、これが音楽に求心力を与えているのではないでしょうか。

ヘンデルなどは歌謡性に偏ると品がなくなってしまうものですが、かといって現代歌唱法では艶やかさも必要とされるわけで、そこらへんの折り合いは大変うまいと思います。

日本歌曲といものは極端に子音やアクセントが少なく、云わばほとんどがロングトーンで出来ているようなものなので、《歌い方》よりも《声そのもの》が物を言うとても難しいものです。
私は、一貫したサウンドを目指す西洋歌唱とこうした日本語のせめぎあいが破綻したところを見せられる事が少なくない、という印象を持っています。

このような日本歌曲でも巧みなトーンコントロールとイントネーションで一貫性を持ちながら表情豊かに、歌謡性と器楽的音楽性を両立していました。

つねに求心力を持ち、退屈だとすぐに早まわししたくなる私でも、ちっとも先へ進みたくなることがありません。
この人でシューベルトシューマンを聴きたい。そう思わせる音楽性です。

イメージ 1容姿容貌立ち姿、全てが美しいし、何ゆえ天は一人の人間にこんなにも多くのものを与えたのでしょうか?
竹澤恭子さんや内田光子さんなど、私にとっては日本の至宝と呼びたい人たちの仲間入りも遠くない印象です。

唯一つだけ、あえて苦言を呈しておきたいことがあります。
森さんは、特に感情がこもる箇所で必ず目を閉じてしまいます。
恋人と向き合って愛を語るとき、一番感極まったところで目を閉じていられたら、相手はどう感じるでしょう?置いて行かれたように感じませんか?
歌曲ならまだいいとしても、この前のドレスデン国立歌劇場の《薔薇の騎士》でゾフィーという大役を演じた際も、多くの重要な箇所で目を閉じっ放しでした。
演技における目の役割を考えれば、私には演技放棄とも思えるくらい残念な舞台でした。歌唱では何ら遅れをとってはいないのに。

イメージ 2こんなにきれいな目をどうして閉じてしまうのですか?


来年はいよいよトリノでムゼッタです。
ムゼッタは絶対に相手から目線を逸らしはしませんよ。心より成功をお祈りします。


[2009-7-11]